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それらを遠目に確認しつつ、咲太は現代小説のハードカバーが並んだ本ほん棚だなの前に移動した。少し見下ろすような形で、あいうえお順に整せい頓とんされた本の背表紙を順に目で追っていく。探しているのは『ゆ』の列。背の低い本棚は、身長172センチの咲太の腰こしくらいまでしかない。  妹に頼たのまれた本はすぐに見つかった。作者は『由ゆ比いヶが浜はまかんな』。タイトルは『王子様のくれた毒リンゴ』。発売されたのは確か四、五年前だったはずだ。妹は同じ作者の前作がお気に召したようで、全作品を追いかけることに決めたらしい。  丁度よく汚よごれてくたびれた本を、咲太は背の低い本棚から抜ぬき取とった。  貸し出しカウンターに持っていこうと顔を上げる。『それ』が視界に収まったのは、まさにその瞬しゆん間かんだった。  本棚を挟はさんだ正面に、バニーガールが立っている。 「……」  瞬まばたきを数回。幻まぼろしかと疑ったがどうやら違ちがうらしい。輪りん郭かくも存在もはっきりしている。  足元には艶つやのある黒のハイヒール。すらりと伸びた両足を包んでいるのは、肌はだの色が透すけて見える黒のストッキング。同じく黒のレオタードは、細身ながらメリハリのある体のラインを際立たせていて、胸元には控ひかえめながらしっかりと谷間を作っていた。  手首にはアクセントとなっている白のカフス。首にはやっぱり黒の蝶ちようネクタイ。  ヒールの分を差し引いた身長は約165センチ。凜りんとした顔立ちには、どこか退たい屈くつそうな表情が浮うかんでいて、大人っぽい気だるさと色気を漂ただよわせている。  最初は、何かの撮さつ影えいだろうかと咲さく太たは疑った。けれど、周囲を見回しても、TVスタッフらしき大人たちの姿はない。彼女は完全にひとり。単独にしてノラ。驚おどろいたことに、野生のバニーガールだった。  当然、昼下がりの図書館の中で、彼女の存在は浮きまくっていた。場ば違ちがいというか……そもそも、バニーガールが生息する場所などラスベガスのカジノか、ちょっといかがわしいお店くらいしか咲太には思いつかないのだが、とにかく場違いだった。  ただ、咲太が本当の意味で驚きを感じた理由は、別のところにある。  これだけ派手で目立つ格好をしているのに、誰だれも彼女を見ていなかったのだ。 「なんだこりゃ」  思わず、声がもれる。近くにいた司書さんが「お静かに」という意図の視線を投げかけてくる。それに軽く会え釈しやくを返しながら、「いやいや、もっと他に気になる人がいるだろ」と咲太は思っていた。  けれど、だからこそ、奇き妙みような確信を咲太は得ることができた。  誰もバニーガールを気にしていない。気にも留めてないどころの騒さわぎではなくて、気づいてすらいない様子だった。  普ふ通つう、刺し激げき的てきなウサギさんが側にいれば、難しい顔で六法全書と格かく闘とうしている学生さんだって顔を上げる。新聞を読んでいるおじさんだって、新聞を読むふりをして、ちらりと盗ぬすみ見みる。司書さんだって、「そのお召し物では……」と丁てい寧ねいに注意をしてしかるべき状じよう況きようのはずだ。  おかしい。明らかにおかしい。  これではまるで咲太にだけ見えている幽ゆう霊れいのような存在。  背中を冷たい汗あせが流れていく。  そんな咲太の動どう揺ようをよそに、バニーガールは一冊の本に手を伸ばすと、奥おくの勉強コーナーに足を向けた。  その途と中ちゆう、彼女は勉強中の女子大生の顔を覗のぞき込こみ、べ~っと悪戯いたずらっぽく舌を出す。タブレットPCを操作している社会人に対しては、見えていないことを確認するように、顔と画面の間に手を出して、上下に動かしていた。ふたりが無反応だとわかると、彼女は満足げな笑みを浮かべた。  そのあとで、一番奥の空いていた席に座る。  真正面の席で調べ物をしている男子大学生は彼女に気づかない。彼女が少しずり下がったレオタードの胸元を、くいっと持ち上げる仕草をしても、まったく反応していなかった。確実に視界には収まっているはずなのに……。  しばらくして、その大学生は調べ物が片付いたのか、何事もなかったかのように帰り支度をはじめた。そして、何事もなかったかのように、その場から立ち去っていく。去り際に、ちらりと彼女の胸元を見下ろしたりはしなかった。 「……」  少し悩なやんだあとで、咲さく太たは丁度できた空席に、大学生と交代する形で座った。  目の前にいるバニーガールをじっと見み据すえる。剝むき出だしの両りよう肩かたから流れる二にの腕うでのやわらかそうな曲線。首から胸元の白い素す肌はだ。呼吸のたびにゆっくりと動くそれらは妙みように扇せん情じよう的てきで、真面目を象しよう徴ちようする図書館の中なのに、おかしな気分になりそうだった。いや、十分おかしな気分になっていた。  しばらくして、手にした本から視線を上げた彼女と目が合ってしまう。 「……」 「……」  お互たがいに瞬まばたきを二回。  先に口を開いたのは彼女の方だった。 「驚おどろいた」  どこか跳はねるような悪戯いたずらっぽさが含ふくまれた声音。 「君にはまだ私が見えてるんだ」  まるで他の人には自分が見えていないかのような言い草だ。  けれど、彼女の言葉の受け取り方としては、それで正解だったのだろう。事実、周囲の人たちは、違い和わ感かんの塊かたまりみたいな彼女の存在に、誰だれひとりとして気づいていなかったのだから……。 「それじゃあ」  本を閉じた彼女が立ち上がろうとする。  本来ならばこれでお別れ。今日は変な人に出会ったと、後日笑い話にでもすればいい。けど、簡単には割り切れない理由が咲さく太たにはあった。  困ったことに、咲太は彼女のことを知っていたのだ。  同じ高校に通うひとつ上の先せん輩ぱい。県立峰みねヶが原はら高等学校の三年生。名前も言える。フルネームを知っている。  桜さくら島じま麻ま衣い。  それがバニーガールの名前だ。 「あの」  立ち去ろうとしていた白い背中に小さく声をかけた。  ぴたりと足が止まる。  視線だけで麻衣は「なに?」と聞いてきた。 「桜島先輩ですよね?」  声のボリュームに注意してその名を口にする。 「……」  麻衣の瞳ひとみが一いつ瞬しゆんだけ驚おどろきに揺ゆれた。 「私をそう呼ぶということは、君、峰ヶ原高校の生徒なの?」  麻衣が再び席に着く。真っ直ぐに咲太を見つめてきた。 「二年一組の梓あずさ川がわ咲太です。梓川サービスエリアの『梓川』に、花咲く太郎の『咲太』で、梓川咲太」 「私は桜島麻衣。桜島麻衣の『桜島』に、桜島麻衣の『麻衣』で桜島麻衣よ」 「知ってます。先輩、有名人だし」 「そう」  興味なさそうに、麻衣は片手で頰ほお杖づえを突ついて窓の外へと視線を逸そらす。わずかに前ぜん傾けい姿勢になったことで、胸の谷間が強調される。自然とそこへと目が吸い寄せられた。これぞ、眼がん福ぷく。 「梓川咲太君」 「はい」 「ひとつ、忠告をしてあげる」 「忠告?」 「今日、見たことは忘れなさい」  口を開きかけた咲太が言葉を発する前に、麻衣がさらに続ける。 「このことを誰だれかに話したりしたら、頭のおかしな人だと思われて、頭のおかしな人生を送ることになるんだから」  なるほど、確かに忠告だ。 「それと、金こん輪りん際ざい、私に関わらないように」 「……」 「わかったのなら、『はい』と言いなさい」 「……」  無言の咲さく太たに、麻ま衣いはむっとしたような表情を見せた。でも、すぐにさっきまでの気だるげな表情に戻もどると、今度こそ席を立つ。そして、本を元の棚たなに戻してから、図書館の出口へと歩き出した。  その間、やはり誰だれひとりとして、麻衣に注目する人はいなかった。貸し出しカウンターの目の前を悠ゆう然ぜんと通過しても、司書さんたちは黙もく々もくと自分の仕事を続けていた。黒のストッキングに包まれた細くて綺き麗れいな足に見み惚とれていたのは咲太だけだった。  麻衣の姿がすっかり見えなくなったところで、取り残された咲太は机に突つっ伏ぷした。 「忘れろって言われてもな」  ぽつりと独り言をもらす。 「あんな刺し激げき的てきなウサギさん姿、忘れんのは無理だろ」  全開だった肩かたから胸元にかけての色っぽい素す肌はだ。麻衣が頰杖を突いたおかげで、強調された谷間。鼻に残ったいい香かおり。咲太にだけ聞こえるように囁ささやく小さな声。真っ直ぐに見つめてくる澄すんだ瞳ひとみ。それらすべてが咲太のオスの部分を刺し激げきしてきて、体の一部がとても元気になっている。  おかげで、立ち上がろうにも周囲の目が気になって立ち上がれない。  しばらくは大人しく座っているしかなさそうだ。  それが、色々と聞きたいことがありながらも、すぐさま麻衣を追いかけられなかった理由だった。     2  翌朝、咲太は「ウサギの群れに押おし潰つぶされる」という、変な夢にうなされて目を覚ました。 「空気を読んで、ここはバニーガールだと思うんだが……」  自分の夢に注文をつけつつ体を起こそうとする。 「ん?」  でも、どうしたことか起き上がれない。左の肩がやけに重たい。  布団をめくると、その理由が判明した。  左ひだり腕うでに抱だきつくように、丸まって眠ねむっているパジャマ姿の少女がひとり。あどけない寝ね顔がお。布団がなくなって寒いのか、より咲さく太たに体を寄せてきた。  今年十五歳になる妹のかえでだ。 「かえで、朝だぞ、起きろ」 「お兄ちゃん、寒いです……」  寝ねぼけて起きる気配がないので、咲太は妹を持ち上げて立ち上がった。 「重っ!」  身長162センチと女子としては背が高い実の妹。最近は発育もよろしく、女の子から女の人への成長を両りよう腕うでで実感する。 「かえでの半分は、お兄ちゃんへの想いで出来てるんです」 「なんだそのイタイ設定は。半分がやさしさの頭痛薬か? てか、起きてるなら起きろよ」 「む~」  不満を表情いっぱいに溜ため込こみながらも、かえでは咲太の腕の中から下りた。ここ一年くらいで、顔のつくりが大人びてきたせいか、どうも言動と見た目のつり合いが取れていない。おかげで、何気ない兄と妹のスキンシップに、妙みような背はい徳とく感かんが漂ただよってきている。 「あと、僕ぼくのベッドに潜もぐり込こむのもそろそろ卒業しろよ」  ついでに、パンダの柄がらをしたフード付きのパジャマも卒業した方がいい。 「かえでが起こしに来たのに、お兄ちゃんがすぐに起きなかったからいけないんです」  むすっとした顔は年ねん齢れいよりも幼く見える。 「だとしても、もういい年とし頃ごろなんだからさ」 「あ、お兄ちゃんが朝から興奮してしまうんですね」 「実の妹に誰だれが欲情するか」  おでこを軽く突つついてさっさと部屋を出る。 「あ~、待ってください」  その後、ふたり分の朝ごはんを用意して、かえでとふたりで食べた。先に食事を終えた咲太は、学校に行く身支度をてきぱきと済ませると、 「お兄ちゃん、いってらっしゃい」  と笑顔のかえでに見送られて、ひとり家を出た。  住んでいるマンションの敷しき地ちから出ると、すぐにあくびが出た。昨日は、色々と刺し激げき的てきなものを見たせいか、興奮してなかなか寝ね付つけなかったのだ。その上、変な夢を見て目覚めもあまりよくない。  再度あくびをしながらも、住宅街を通とおり抜ぬけていく。途と中ちゆう、橋を一本渡わたる。駅が近づくにつれて周囲の建物は大きくなってきた。人ひと影かげも増え、その誰もが咲太と同じ方向へと歩みを進めている。  突つき当あたった大通りの信号をひとつ渡わたり、ビジネスホテル、家電量りよう販はん店てんの脇わきを通過すると、ようやく駅が見えてきた。  家を出てから約十分。  神奈川県藤ふじ沢さわ市しの中心地である藤沢駅。通勤、通学の社会人と学生が右へ左へと忙せわしなく行き交っている。  駅の一階には、上りは新しん宿じゆく、下りはスイッチバックで片かた瀬せ江えノ島しま方面へと向かう小お田だ急きゆう線せんのホームがあり、二階はJRの東とう海かい道どう線せんと湘しよう南なん新宿ラインの改札口だ。  咲さく太たは人の流れに乗って、階段を上がった。けど、JRの改札には背を向ける。  連れん絡らく通路を三十メートルほど進むと、小田急百貨店のビルの前に着いた。別に、今からデパートで買い物をしようというわけではない。だいたい、今はまだ店は閉まっている。その閉まっているドアの右側に、もうひとつの藤沢駅があるのだ。  江ノ島電鉄。通つう称しよう江えノ電でんのホーム。途と中ちゆう、十三の駅に停車しながら、約三十分をかけて鎌かま倉くらまでを繫つなぐ単線路線。  咲太が定期券をかざして改札を通ると、電車が入ってきたところだった。窓まど枠わくのあたりはクリーム色で、上下を緑色で挟はさんだレトロな雰ふん囲い気き。四両編成と短い。  咲太はホームの先まで歩いて、一番前の車両に乗り込んだ。  小、中、高を問わず、制服姿の乗客が多い。残りはスーツ姿の社会人。この街に住むまでは観光路線のイメージしかなかったが、地元の住民にとっては通勤通学の足として、日常的に利用されている。  咲太が奥おくのドア付近に寄りかかると、 「うっす」  と声をかけてくる人物がいた。  あくびを嚙かみ殺ころしながら隣となりにやってきたのは、かの有名な男性アイドルの芸能事務所に在ざい籍せきしていそうなイケメン。全体的な顔のつくりはシャープで、一見すると威い圧あつ感かんがあるのに、笑った途と端たんに目め尻じりが下がって人ひと懐なつっこい幼さが顔を出す。それが女子にはたまらない魅み力りよくらしい。  名前は国くに見み佑ゆう真ま。所属するバスケ部でレギュラーとして活かつ躍やくする二年生。彼女あり。 「はぁ……」 「おいおい、人の顔を見るなりため息はないだろ」 「朝から国見のさわやかさは目に毒だ。憂ゆう鬱うつになる」 「まじか」 「まじだ」  他愛のない日常会話を繰くり広ひろげていると、発車ベルが鳴ってドアが閉まった。  重たい体を引きずるように走り出した電車は、ゆるゆるとまだ加速途中としか思えない速度で進んでいく。かと思えば、早くも速度を落としはじめて、次の石いし上がみ駅に停車した。 「なあ、国くに見み」 「ん?」 「桜さくら島じま先せん輩ぱいって……」 「残念だったな」  まだ殆ほとんど何も言っていないのに、佑ゆう真まは先回りして咲さく太たの肩かたにぽんと手を置いてきた。 「なに、なぐさめてんだよ」 「咲太が牧まき之の原はら以外の女子に興味を持つのは喜ばしいことなんだが、いや~、さすがにあの人は無理だろぉ」 「僕ぼくは告白するとも、好きになったとも言ってないぞ」 「んじゃ、なに?」 「あの人、どういう人なのかと思って」 「ん~、そら、有名人じゃん?」 「ま、そうだよな」  そう、桜島麻ま衣いは有名人だ。恐おそらく、県立峰みねヶが原はら高等学校に通う全生徒が彼女のことを知っている。いや、日本国民の七、八割が知っているんじゃないだろうか。そう言っても大げさに聞こえないくらいに、本当の有名人なのだ。 「子役として六歳で芸能界デビュー。デビュー作の朝ドラは過去の超ヒット作と肩を並べるほどの視し聴ちよう率りつと人気を誇ほこり、一いち躍やく時の人となりましたってか」  それを起き爆ばく剤ざいに、その後は映画、ドラマ、CMなどにも多数出演。文字通りTVで見ない日はないという人気を獲かく得とくした。  さすがに、デビューから二年、三年と経過するにつれて、一時期の『なんでもかんでも桜島麻衣』という勢いはなくなったが、逆にそこからは役者としての実力を買われたオファーが増えていくことになる。  単年で消える芸能人が多い中で、中学生になっても順調に演技の仕事を続けていた。その時点で十分すぎるほどにすごいのだが、彼女には二度目のブレイクまであったのだ。  十四歳になった桜島麻衣は、大人びた美少女に成長し、その当時公開された映画を切きっ掛かけに、再び急速に注目を集めていった。一週間のうちに発売される漫画雑誌の表紙グラビアが、すべて彼女の笑顔で埋うめ尽つくされるようなこともあったほどだ。 「俺おれ、中学の頃ころの桜島麻衣は好きだったな。あの、なんつうの? かわいさとエロスとミステリアスの融ゆう合ごうがたまらんかった」  佑真のみならず、多くの男子が心を奪うばわれていった。  人気は再び絶頂へ。けれど、その最中に、突とつ如じよとして麻衣は活動休止を発表する。麻衣が中学を卒業する直前。明確な理由は語られなかった。あれからまだ二年と数ヵ月しか経っていない。  その桜さくら島じま麻ま衣いが、自分が通うことになった高校にいるのを知ったときには、さすがに驚おどろいた。  純じゆん粋すいに、「芸能人って実在したんだなあ」と思ったものだ。 「いろんな噂うわさはあったよな。あれだけ売れてるのは、枕まくら営業やってるからだとか、プロデューサーの愛人だとか」 「その頃ころ、まだ小学生だろ」 「さすがに中学になってからの話だよ。むしろ、最初はマネージャーしてた母親の方がやってるなんて噂が、ワイドショーとかに出てたろ。今じゃ、芸能事務所立ち上げて、社長だったか? 先週、そっちの方はTVで見たぞ」 「ふ~ん、それは知らなかった。でも、噂に関しては、どうせ根も葉もないただの噂だろ」 「火のないところに煙けむりは立たないって言葉もある」 「その火元が本人とは限らない。今はそういう時代なんだよ」  ネットを通して、一いつ瞬しゆんで情報は広く伝達する。共有される。たとえ、それが真実でなくても……。受け取る側にとっては真しん偽ぎなどたいして重要ではないのだ。話題になるか、ネタになるか、面白いか、祭りになるか、ザマぁ見ろと思えるか。その程度でいい。 「咲さく太たが言うと説得力が違ちがうね」  その言葉は軽く聞き流しておいた。  相変わらずゆっくりと走る電車は、柳やなぎ小こう路じ、鵠くげ沼ぬま、湘しよう南なん海かい岸がん公こう園えん、江えノ島しまの四つの駅を過ぎていた。  窓の外を見ると、唯ゆい一いつの路面区間を通過中だった。すぐ隣となりに乗用車がいるという不思議な光景。でも、「おっ」と思ったときには、通常の線路に戻もどってしまった。  この辺まで来ると、周囲の建物と電車との距きよ離りがぶつかりそうなくらいに近い。窓から手を出せば、民家の石いし垣がきに手が届きそうだし、庭の木々の枝や葉は、時々車両に当たっているんじゃないかと思うほどだ。  そうした心配をよそに、電車は家々の間をのんびりとすり抜ぬけて、次の腰こし越ごえ駅に到とう着ちやくした。 「でも、学校じゃ誰だれかと一いつ緒しよにいるの見ないよな」 「ん?」 「桜島先せん輩ぱいだよ。咲太が言い出した話題だろ」 「ああ、そうだな」 「いっつもひとりっつうかさ」  クラスで浮ういているという以上に、学校から浮いている。桜島麻衣からはそういう印象を咲太も受けていた。 「バスケ部の先輩に聞いたんだけど、一年の最初の頃は、全然学校来てなかったらしいぞ」 「なんで?」 「仕事。活動休止を宣言したあとも、出演が決まってた作品は出てたろ?」 「あ、そういうことか」  でも、だったら、全部仕事が片付いてから芸能活動の休止を宣言すればよかったんじゃないだろうか。何か、先に言わないといけない事情でもあれば別だが……。 「まともに来るようになったのは、夏休み明けらしい」 「……そりゃ、しんどいな」  秋に麻ま衣いが登校した際の教室の様子は容易に想像できた。クラスメイトたちは、一学期という時間をかけて、各々の関係値とグループの勢力図を完全に固めていたはずだ。 「その先は推して知るべしってわけ」  佑ゆう真まも同じ想像をしているのだと思う。  一度決まったクラスの形は、そう簡単には変わらない。自分の居場所があることに安あん堵どして、誰だれもがそこにしがみ付く。クラス内での地位を守ろうとする。  二学期から登校するようになった麻衣は、さぞ扱あつかいにくい存在だったことだろう。芸能人でもある麻衣。当然、気にはなるけど、迂う闊かつに触ふれるわけにもいかない。積極的に麻衣に話しかけるような真似をすれば変に目立ってしまう。目立てば誰かに「ウザい」とか、「調子乗ってる」とか、陰かげ口ぐちを叩たたかれるかもしれない。それを理由に、今度は自分がクラスから浮ういていく。そうなったら、もう元には戻もどれないことをみんなが知っている。それが学校という空間。  そのせいで、麻衣は学校に馴な染じむ機会を得られなかったのだと思う。  結局のところ、毎日口くち癖ぐせのように、「つまらない」とか、「面白いことないかな~」とか言ってるくせに、本当はみんな変化など求めてはいないのだ。  咲さく太ただってそうだ。何もない方が楽でいい。気楽でいいと思っている。心も体も疲つかれなくていい。平へい穏おん万ばん歳ざい。ヒマ最高だ。  発車のベルが響ひびき、ドアがブシューと音を立てながら閉まる。  再び走り出した電車はやはりのんびりと民家の間を通とおり抜ぬけていく。  目の前には建物の壁かべ。壁に次ぐ壁。家に次ぐ家。時々、やたらと小さな踏ふみ切きり。そして、まだまだ壁と家が続くかと思った瞬しゆん間かん、何の前まえ触ぶれもなく視界が彼方まで広がった。  海。  どこまでも続く青い海が見える。朝の太陽の光を反射して、きらきらと輝かがやいていた。  空。  どこまでも広がる青白い空が見える。朝の澄すんだ空気は、青から白へのグラデーションを作っていた。  そのふたつの中心には、真っ直ぐに引かれた水平線。この一いつ瞬しゆんの車窓には、車内の視線を奪っていく魔ま力りよくがある。  電車はしばらくの間、相模さがみ湾わんに面した七しち里りヶが浜はまの海岸線を走る。右手には江えの島しまがあり、左手には海水浴場として知られる由ゆ比いヶが浜はまを望むことができる魅み力りよく的てきなポイント。 「でも、なんで急に桜さくら島じま先せん輩ぱいなんだよ」 「国くに見みはバニーガール好きか?」  窓の外に視線は向けたままで咲さく太たは尋たずねた。 「いや、そうでもない」 「なら、大好きか?」 「ああ、大好きだ」 「だったら、教えない」 「はあ? なんだそりゃ。教えろって」  軽く佑ゆう真まがわき腹を小こ突づいてくる。 「たとえば、図書館で魅み力りよく的てきなバニーガールに出会ったら、国見はどうする?」 「二度見するな」 「だよな」 「そのあと、ガン見する」  これが正常な人間の反応だ。少なくとも正常なオスの反応と言える。 「んで、それが桜島先輩と何か関係あるわけ?」 「あると言えばあるけど、どうだろな」 「なんだそりゃ」  咲太が濁にごすと、それ以上は追及する気がないらしく、佑真は適当に笑うだけだった。  なおも海岸線を走る電車は、途と中ちゆうにもうひとつの駅を挟はさんで、咲太の通う峰みねヶが原はら高校がある七しち里りヶが浜はま駅に到とう着ちやくした。  電車のドアが開くと潮しおの香りがした。  その中を、同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろとホームへ降りていく。定期のICを読み取るカカシみたいな機械が一本立っただけの簡素な改札口。日中は駅員さんが立っているが、咲太たちが登校するこの時間には誰だれもいない。  駅を出て、踏ふみ切きりをひとつ渡わたれば、学校はもう目の前だ。 「そういや、かえでちゃんは元気?」 「妹はやらんぞ」 「つれないこと言うなよ、お義に兄いさま」 「国見にはかわいい彼女がいるだろ」 「そういや、そうだった」 「彼女が聞いたら怒おこるぞ」 「いいよ。俺おれ、上かみ里さとの怒った顔も好きだし。ん? お、噂うわさをすればなんとやらってか」  何かに気づいた佑真の視線を追うと、十メートルほど前を桜島麻ま衣いがひとりで歩いていた。長い手足に、小さな顔。すらっとしたモデルのような体型。同じ制服を着ているはずなのに、他の生徒とは違ちがって見える。両足を包む黒タイツも、お尻しりを隠かくしたスカートも、サイズがぴったりのブレザーも……そのすべてがしっくりきていない。借り物の衣装を着せられている感じ。もう三年生だというのに、制服は麻ま衣いに全然馴な染じんでいなかった。  むしろ、その周囲でしゃべる女子三人組の方が、よっぽど上手に制服を着こなしている。部活の先せん輩ぱいに威い勢せいよく、「おはようございます!」と言っている一年生の方が似合っていた。友人の背中に軽く蹴けりを入れている男子生徒でさえ、華はなやかさと活気に満ちている。  駅から学校までの短い通学路は、峰みねヶが原はら高校に通う生徒たちの楽しげな話し声と笑い声で満たされていた。  そうした中を、ひとり無言で歩き続ける麻衣の姿は妙みように孤こ独どくに見えた。平へい凡ぼんな県立高校に迷い込んだ異分子。異質な存在。みにくいアヒルの子。それが、この場所における桜さくら島じま麻衣の印象だった。  いや、それどころか、誰も麻衣を気にしていない。あの『桜島麻衣』がいるのに、見向きもしていない。騒さわぎ立たてる生徒はひとりとしていない。これが峰ヶ原高校における『普ふ通つう』なのだ。  言うなれば、『空気』のように、麻衣はこの場所に存在している。それを全員が受け入れている。その光景は、昨日、湘しよう南なん台だいの図書館で見た人々の反応を、咲さく太たに思い出させていた。妙な不安感が腹部をそわそわとさせる。 「なあ、国くに見み」 「ん?」 「桜島先輩のこと見えてるよな」 「そら、ばっちりと。目はいい方だからな。両目とも2・0」  こんな質問をすれば、佑ゆう真まのように返答するのが当然だった。昨日の、アレがどうかしていたのだ。 「んじゃあな」 「ああ」  今年は別々のクラスになった佑真とは二階の廊ろう下かで別れ、咲太は二年一組の教室に入った。すでに登校している生徒は半分ほど。  窓際の一番前の席に座る。『梓あずさ川がわ』という名字のおかげで、春の席順はだいたい同じ位置になる。『相あい川かわ』や『相あい沢ざわ』でもいない限り、出席番号は一番。なんとなく損そんをすることが多いように思う『一番』だ。けど、この峰ヶ原高校に入学してからは、春に窓際の席が約束されるのであれば、そう悪い番号でもないと思えるようになっていた。  なぜなら、この学校の窓からは海が見えるのだ。  朝から風を求めてやってきたウィンドサーフィンの帆ほがいくつか見える。 「ねえ」 「……」 「ねえってば」  近くでした声に気づいて顔を上げる。  机を挟はさんだ真正面から、不ふ機き嫌げんそうな女子生徒が咲さく太たを見下ろしていた。クラスで一番目立つ女子グループの中心的存在。名前は上かみ里さと沙さ希きだ。  ぱっちりと開いた大きな目。肩かたまである髪かみはくるんと内向きにカールしている。薄うっすらとメイクした唇くちびるは綺き麗れいなピンク色だ。男子の間ではかわいいと評判。 「無視とか酷ひどくない?」 「ごめん。僕ぼくに話しかけてくるやつが、まだこの教室にいるとは思わなかった」 「あのさ……」  チャイムがそこで鳴る。  続けて、担任の教師が教室に入ってきた。 「あーもー。大事な話があるから、放課後、屋上。絶対だよ」  ばんと机に手を置くと、上里沙希は斜ななめ後うしろの自分の席へと戻もどっていった。 「僕の意思は関係なしか」  ぼそりと独り言を口にしてから、咲太は肘ひじを突ついて海を見み据すえた。  今日も海はそこにある。ただ、あるだけだ。 「面めん倒どうなことになったな……」  女子生徒から放課後に呼び出しを受けても、咲太は少しも浮うかれた気分になれなかった。雀すずめの涙なみだほどのときめきもなかった。  だいたい、上里沙希は国くに見み佑ゆう真まの彼女なのだ。     3  放課後、忘れたふりをして一度は下げ駄た箱ばこに行った咲太だったが、律儀りちぎにも引き返して屋上へ顔を出した。ばっくれたらあとが面倒だと考え直したのだ。少し違ちがうが、急がば回れ。  それなのに、先に来ていた上里沙希からは、 「遅おそい!」  と早速怒おこられた。心外極まりない。 「掃そう除じ当番だったんだよ」 「そんなの知らない」 「で、何の用?」 「単刀直入に言うけど」  そう前置きをしたあとで、沙さ希きは真っ直ぐに咲さく太たを睨にらみ付つけてきた。 「クラスで浮ういてる梓あずさ川がわなんかと一いつ緒しよにいると、佑ゆう真まの株が下がるの」 「……」  なにやらすごいことを言われた。宣言通り、単刀直入だ。 「今日、はじめて上かみ里さとさんとは会話をするのに、僕ぼくのことをよく知ってるんですね」  棒ぼう読よみで言葉を返しておく。 「『病院送り事件』のことは、みんな知ってる」 「ああ……『病院送り事件』ね」  興味がなさそうに、咲太は曖あい昧まいに繰くり返かえした。 「佑真がかわいそうだから、今後、佑真としゃべんないで」 「その理り屈くつだと、現在進行形で上里さんもかわいそうで、株が大暴落してるけど、いいわけ?」  屋上には他の生徒の姿もある。彼らの視線は、不ふ穏おんな空気を放つ咲太と沙希を明らかに気にしていた。  スマホをいじっているやつもいる。実じつ況きようでもしているんだろうか。ご苦労なことだ。 「あたしはいいの。佑真のためだもん」 「なるほど。すごいな、上里さんは」 「はあ? なに褒ほめてんの?」  どちらかというと揶や揄ゆする意味で言ったのだが、皮肉が伝わらなかったようだ。 「まあ、心配ないと思うぞ。大だい丈じよう夫ぶだろ、国くに見みは。僕と一緒にいるところを誰だれかに見られたくらいで、国見の株は落ちない。あいつは、自分の母親が作った弁当を毎日美味いと言って、感謝しながら食うほどに、思いやりというものがどういうことかを知っているいいやつだ」  母子家庭に育てば誰だって母親を大切にする、と佑真は笑っていたが、そんな単純な話じゃないことはバカでもわかる。余計に反発するやつだって絶対にいる。 「そんなわけで、国見は上里さんにはもったいないくらいにいいやつだから安心しろ」 「ケンカ売ってるの?」 「買ってるんだよ。上里が僕にケンカ売ってるんだろ?」  苛いら々いらしてきたせいか、『さん』が抜ぬけてしまった。 「それ! その上里もムカツク! なんであんたのことは名前で呼ぶくせに、彼女のあたしは佑真から『上里』って名字で呼ばれなきゃいけないのよ」  変なところに食いつかれて、急に話題が飛んだ。「知るか」と思ったが黙だまっておく。これ以上、彼女の愛に振ふり回まわされるのはごめんだ。  ただ、その代わりに口にした言葉こそ、言うべきではなかったのかもしれない。 「そんなに苛いら々いらして、上かみ里さと、生理か?」 「んなっ!」  一いつ瞬しゆんで、沙さ希きの顔が真っ赤に染まる。 「ちょっ、死ね! バカ! 死ね! 絶対死ね!」  完全に取り乱した沙希は、罵ば声せいを浴びせながら校舎の中へと戻もどっていく。ばたんと勢いよく屋上のドアが閉まった。  ひとり取り残された咲さく太たは、 「……やべ、図星だったか」  と、反省して頭をぼりぼりと搔かいた。  うっかり上里沙希と校舎の中で再会しないように、咲太は屋上で少し潮しお風かぜに吹かれてから帰宅することにした。  下げ駄た箱ばこに下りてきたのは、空が赤く染まりかけた頃ころ。  真っ直ぐに帰宅する生徒の姿はすでにない。学校に残っているのは部活動に勤いそしんでいる生徒だけという中ちゆう途と半はん端ぱな時間帯。人ひと気けのない下駄箱は静かで、時折聞こえてくる部活の掛かけ声ごえは、やけに遠くに感じた。今、ここには自分しかいないことを強く実感する。  駅までの道も殆ほとんど貸し切り状態だった。すぐにたどり着いた七しち里りヶが浜はま駅もやはり空いている。授業が終わった直後は、峰みねヶが原はら高校の生徒でいっぱいになる小さなホームに、今は数名の人ひと影かげがあるだけだ。  その中に、咲太はある人物の姿を見つけた。ホームの端はしの方に、凜りんとして佇たたずむ女子生徒。周囲との接せつ触しよくを拒こばむような雰ふん囲い気き。イヤホンのコードは、耳から気だるげに垂れ下がり、制服の上着のポケットまで続いている。  桜さくら島じま麻ま衣いだ。  夕日を浴びた横顔は、どこか物もの憂うげで美しく、立っているだけなのにとても絵になっていた。しばらく眺ながめていたいと思わせるほどに……。けど、今は別の興味が咲太を動かしていた。 「こんにちは」  咲太は近づきながらそう声をかける。 「……」  返事はない。 「こんにちはー」  先ほどよりも大きな声を出す。 「……」  やはり、反応はなかった。  でも、なんとなく咲太の存在に、麻衣は気づいているように思えた。  物静かな駅のホーム。電車を待っているのは、咲さく太た、麻ま衣い、それと峰みねヶが原はら高校の生徒が他三名。今、観光客と思しき大学生のカップルがやってきた。駅員に一日乗車券『のりおりくん』を提示している。  ホームの真ん中までやってきたカップルは、ほどなくして麻衣の存在に気づいた様子だった。 「ねえ、あれ」 「やっぱり、そうだよな?」  指を差しながらこそこそと相談する声が聞こえてくる。麻衣は気づいていないのか、相変わらず線路の方を向いたままだ。 「ちょっと、やめなって~」  止める気なんてさらさら感じさせない甘ったるい女性の声。ふざけてじゃれ合うカップルのやり取りは、静かな駅の中で耳みみ障ざわりでしかなかった。  我が慢まんしかねて咲太が振ふり向むくと、男の方がスマホのカメラを麻衣に向けていた。  シャッターが切られる寸前、咲太はフレームに割り込んだ。パシャッと音がする。きっと咲太のアップが写ったはずだ。 「な、なんだよ。お前!」  一いつ瞬しゆん驚おどろいたような表情を見せながらも、男が強気に前に出てくる。彼女の手前、高校生ごときに遅おくれを取るわけにはいかないのだろう。 「人間ですが」  真顔で質問に答えておく。間ま違ちがってはいないはずだ。 「はあ?」 「そっちは盗とう撮さつ野郎ですか?」 「んなっ! ち、ちがっ!」 「ガキじゃないんだから、ダサいことしないでくださいよ、お兄さん。見てるこっちが恥はずかしくなる。同じ人間として」 「だから違ちがうって!」 「どうせ、鬼おにの首を取ったような気分で、写真付きのツイートでもする気なんだろうけどさあ」 「っ!?」  図星だったのか、男の顔は一瞬で怒いかりと羞しゆう恥ちに染まる。 「注目浴びたいなら、あんたの写真を撮とって、『盗撮野郎です』ってアップしてあげましょうか?」 「……」 「小学生のときに言われましたよね? 『自分がされて嫌いやなことは、人にしないようにしましょう』って」 「う、うるせえ、バカ!」  ようやく、それだけ絞しぼり出だすと、男は彼女の手を引いて、ホームにやってきた鎌かま倉くら行きの電車に乗り込んだ。一本しか線路がないこの駅は、上りも下りも同じホームに電車が交こう互ごに来て止まるのだ。  走り出した電車を何気なく見送っていると、咲さく太たは背中に視線を感じた。  恐おそる恐おそる振ふり向むくと、麻ま衣いが面めん倒どうくさそうにイヤホンを外しているところだった。  咲太と目が合うと、 「ありがと」  と言ってくる。 「え?」  麻衣の意外な反応に、咲太は驚おどろいた声を出してしまう。 「『余計なことしないで』って怒おこられるとでも思った?」 「はい」 「それは思うだけで我が慢まんしてる」 「だったら、それも言わないでほしかった」  そもそも言ってしまった時点で、全然我慢をしていないと思う。 「ああいうのは、慣れてるから」 「ああいうのは、慣れても何かが磨すり減へるもんでしょ」 「……」  思いがけない言葉だったのか、麻衣が瞳ひとみの奥おくにわずかな驚きを示した。 「磨り減る……ほんとその通りね」  何が楽しいのか、麻衣が口元に小さな笑みを浮うかべる。  今なら話ができるような気がして、咲太は麻衣の隣となりに立った。  でも、先に質問を飛ばしてきたのは麻衣の方だった。 「なんでこんな中ちゆう途と半はん端ぱな時間にいるの?」 「クラスの女子から、屋上に呼び出されて」 「告白? モテるんだ、意外」 「憎ぞう悪おの告白の方ですけど」 「なにそれ」 「あなたのことがとても嫌きらいですと、面と向かって言われました」 「最近、そういうのが流行ってるんだ」 「少なくとも、僕ぼくは生まれてはじめての経験です。桜さくら島じま先せん輩ぱいの方こそ、どうしてこんな中途半端な時間に?」 「君にばったり会わないよう、時間を潰つぶしてたの」  麻ま衣いの横顔からは、本気か噓うそか見分けがつかない。確認して本当だとわかると嫌いやなので咲さく太たは聞くのはやめておいた。  時刻表を振ふり返かえって、話題を変えることにする。 「正確には、今、何時ですか?」 「時計は?」  両手首を出して腕うで時計がないことを見せる。 「なら、ケータイを見なさい」 「ないです」 「スマホだって言いたいわけ?」 「ケータイもスマホもないんです。今日、忘れてきたって意味でもなくて」  持って来ていないのではなくて、単に持っていないのだ。 「……ほんとに?」  麻衣は信じられないという顔だ。 「ほんとにほんとです。前は使ってたけど、むしゃくしゃして海に投げ捨てました」  今でもよく覚えている。峰みねヶが原はら高校の合格発表を見に来た当日の出来事……。  重さ約百二十グラム。それ一台で世界中と繫つながれる便利な通信機器は、振ふり被かぶった咲太の手を離はなれると、緩ゆるやかな放物線を描えがいて海に落ちていった。 「ゴミはゴミ箱に捨てなさい」  ごもっともなお叱しかりを受けてしまった。 「次からそうします」 「君、友達いないでしょ」  ケータイで連れん絡らくが取れなければ、友達付き合いもできない……今はそんなご時世だ。麻衣の指し摘てきは当たっている。番号、メアド、IDの交こう換かんが、友達作りの最初の切きっ掛かけだから、それひとつないだけで、社会のルールから零こぼれてしまう。狭せまい学校という世界の中で、ルールを共有できない人間は最初からあぶれていく。おかげで、入学当初は友達作りに苦労した。 「友達ならふたりもいますよ」 「ふたりは『も』かしら?」 「友達なんて、ふたりいれば十分だと僕ぼくは思いますけどね。そいつらと一生友達すればいいんだし」  スマホに登録された番号、メアド、IDの数に意味なんてない。たくさんいればいいというわけでもないと思う。それが咲太の持論だ。  そもそも、友達の線引きをどこでするか……という問題もある。咲太にとっては、『深夜に相談の電話をしても、渋しぶ々しぶ付き合ってくれる』くらいの間あいだ柄がらを言う。 「ふ~ん」  適当な相あい槌づちを打ちながら、麻ま衣いが上着のポケットからスマホを取り出した。ウサギの耳が飛び出した赤色のカバーがしてある。  その画面を咲さく太たに向けてくる。表示されていた時刻は四時三十七分。あと一分で電車は来る。そう思った直後、麻衣の持ったスマホはぶるぶると震ふるえ出だして、着信を伝えてきた。  見えてしまった画面には、『マネージャー』と記されていた。  麻衣の指が拒きよ否ひに触ふれる。震しん動どうは止まった。 「いいんですか?」 「電車来たし……出なくても、あの人の用件はわかってる」  気のせいか、言葉の後半からは苛いら立だちを感じた。  ゆっくりとホームに藤ふじ沢さわ行きの電車が入ってくる……。  麻衣と同じ乗車口から乗ると、空いていた席に並んで座った。  ドアが閉まり、ゆるゆると電車が走り出す。乗客の数はほどほど。座席は八割ほどが埋うまり、数名が立っている状態。  無言のまま、二駅ほど進んだ。海も見えなくなり、住宅街のど真ん中をガタンゴトンと走っていく。 「昨日のアレなんですけど」 「それは忘れなさいと、昨日、忠告したわよね」 「桜さくら島じま先せん輩ぱいのバニー姿はエロすぎて忘れるのは無理でした」  我が慢まんしていたあくびが出る。 「おかげで昨晩は興奮して、全然寝ね付つけなかったし」  恨うらめしそうに麻衣を見る。 「ちょ、ちょっと! 私を想像して変なことしてないでしょうね」  侮ぶ蔑べつの眼差しと、辛しん辣らつな罵ば声せいが飛んでくるのかと思いきや、麻衣は顔を赤らめて慌あわてていた。恥はずかしさを我慢するように、上うわ目め遣づかいで睨にらみ付つけてくる。なんともかわいらしい仕草だ。  でも、麻衣はすぐに動どう揺ようを押おし殺ころすと、 「べ、別に年下の男の子にエッチな想像されるくらい、私は平気だけどね」  と、取とり繕つくろうように言い訳をしてきた。相変わらず頰ほおは朱色に染まったままだ。強がっているのは一いち目もく瞭りよう然ぜん。大人びた外見とは裏腹に、意外とウブなのかもしれない。 「ちょっと離はなれてくれる?」  汚きたないものを追おい払はらうように、麻衣が咲太の肩かたを押す。 「うわ~、傷付くなー」 「だって、妊にん娠しんしそう」 「名前は何がいいかな?」 「君ね……」  麻ま衣いの視線が冷たく凍こおっていく。どうやら、調子に乗りすぎたらしい。 「私が忘れろと言ったのは格好のことじゃなくて……」 「なら、昨日のアレはなんだったんですか?」  麻衣が逸そらした話題に咲さく太たは素直に乗っかった。元々、そのことを聞くつもりで声をかけたのだ。 「ねえ、梓あずさ川がわ咲太君」 「名前、ちゃんと覚えててくれたんですね」 「人の名前は一度で覚えるようにしてるの」  見習いたい心がけだ。今は休止している芸能活動の中で培つちかったものだろうか。たぶん、そうなのだと感じた。 「君の噂うわさ、聞いたわよ」 「噂……ね」  何のことかは想像がつく。今日もその件で、屋上に呼び出されたくらいだ。 「正確には、聞いたんじゃなくて見たんだけど」  そう言って、麻衣は一度しまったスマホをブレザーのポケットから出した。どこかの掲示板を開いている。 「中学は横よこ浜はまの方だったんだ」 「そうです」 「暴力事件を起こして、同級生三人を病院送りにしたとか」 「意外と武ぶ闘とう派はなんですね、僕ぼくって」 「そのせいで、本当は横浜の高校に進学が決まってたのに、二次募ぼ集しゆうでわざわざ峰みねヶが原はら高校を受験してこっちに引っ越してきたとか」 「……」 「他にも色々あるけど、まだ続ける?」 「……」 「『自分がされて嫌いやなことは、人にしないようにしましょう』って、さっきいいことを言ってた人がいたわね」 「別に詮せん索さくされるくらいなんともないですよ。むしろ、桜さくら島じま先せん輩ぱいに興味を持ってもらえて光栄です」 「ネットってすごいね。こんな一個人の情報まで堂どう々どうと晒さらされてるんだから」 「そうですね」  素っ気無く返事をする。 「ま、書かれていることが事実である保証はないんだけど」 「先せん輩ぱいはどう思ったんですか?」 「自分の頭で少し考えればわかるでしょ。そんな大事件を起こした人間が、平気な顔して高校に通えるわけがない」 「その台詞、クラスメイトに聞かせてあげたいなぁ」 「違ちがうなら違うって、自分で言いなさい」 「噂うわさって空気みたいなものじゃないですか。『そういう空気』って意味の空気……最近じゃあ、読まなきゃいけないことになっている『空気』」 「そうね」 「読めないだけで、ダメなやつ扱あつかいされる空気……あれって、その空気を作っている本人たちに、当事者意識なんてないから、熱心に本当のことを説明したところで、どうせ『なにあれさむーい』ってなるのがオチですよ」  戦っているのは目の前の人ではないから、何を言ったところで手応えなんてないのだ。そのくせ、何かをすれば、見えないところから集中砲ほう火かが返ってくる。 「なのに、空気と戦うなんてバカバカしいですって」 「だから、誤解はそのままにして、君は戦う前から諦あきらめるんだ」 「どの道、誰だれが言い出したのかもわからない、噂や書き込みを、何も考えずに信じてしまえるピュアな連中とは、友達になる自信がないからいいんです」 「悪意のある言い方ね」  麻ま衣いの浮うかべた笑みには共感が見て取れた。 「次は先輩の番」 「……」  一いつ瞬しゆん、不ふ機き嫌げんそうな目を麻衣が咲さく太たに向けてくる。でも、咲太の事情を聞いた手前、諦めたように口を開いた。 「気づいたのは、四連休の初日」  つまり、四日前。五月三日。憲法記念日。 「なんとなく気まぐれで江えの島しまの水族館に行ったの」 「ひとりで?」 「悪い?」 「恋人とかいないのかなぁと」 「そんなのいたことない」  つまらなそうに麻衣が唇くちびるを尖とがらせる。 「へえ~」 「私が処女だったらいけない?」  咲太をからかうように、麻衣が下から顔を覗のぞき込こんでくる。 「……」 「……」  見つめ合うふたり。  見る見る麻ま衣いが赤くなっていく。首まで真っ赤だ。自分で仕し掛かけてきたくせに、『処女』という単語が恥はずかしくなったらしい。 「あ~、僕ぼく、その辺は気にしない主義なんで」 「そ、そう……とにかく! 家族連れで賑にぎわっている水族館の中で、誰だれも私を見ていないことに気づいたのよ」  ふてくされたような麻衣の横顔は、少し幼く見えてかわいらしい。大人っぽい外見しか知らなかったので色々と新しん鮮せんだ。それを指し摘てきすると、また話が脱だつ線せんするので、咲さく太たは心の中にしまっておくことにした。 「最初は気のせいだと思った。芸能活動をやめて二年近く経つし、みんな魚を見るのに夢中だったからね」  声のトーンは徐じよ々じよに深刻なものへと沈しずんでいく。 「でも、帰りがけに近くの喫きつ茶さ店てんに入った瞬しゆん間かんにはっきりした。『いらっしゃいませ』の声もかけられないし、席にも案内されないんだから」 「セルフのお店だったんじゃ」 「昔ながらの喫茶店。カウンター席があって、他にはテーブルが四つくらいしかない小さなね」 「じゃあ、実は前に行ったことがあって、出入り禁止を食らうほど先せん輩ぱいがなんかやらかしたとか?」 「そんなわけないでしょ」  片方の頰ほおを怒いかりに吊つり上あげた麻衣が、咲太の足を踏ふんできた。 「先輩、足」 「足がどうかしたの?」  麻衣は真顔だ。本当に何もわかっていないという雰ふん囲い気きを出してくるからすごい。演技のプロとはこういうものかと思う。 「いえ、踏んでもらえて幸せです」  冗じよう談だんのつもりだったのに、麻衣はドン引きしている。隣となりに座っていた男性が降りたのをいいことに、咲太から少し離はなれる始末。 「ジョークですって」 「少なくとも数パーセントの本気を感じた」 「ま、そりゃあ、男として、美人の先輩に構ってもらえるのはうれしいですから」 「はいはい。もう話が進まないから黙だまって。なんだっけ?」 「喫きつ茶さ店てんで出入り禁止を食らった話です」 「怒おこるわよ」  そう言った麻ま衣いの視線は鋭するどく、どう見てもすでに怒っている。  反省の意を伝えるために、咲さく太たは口にチャックのジェスチャーをした。 「お店の人に話しかけても反応がなくて、他のお客さんたちもまったく私に気づいてなかった」  不ふ機き嫌げんそうな顔のまま、麻衣は話を続けた。 「さすがにびっくりした。逃にげ出だすように帰ってきたんだけど」 「どこまで?」 「藤ふじ沢さわ駅よ。でも、着いたらなんでもなかった。みんな普ふ通つうに私のことを見てた。あの『桜さくら島じま麻衣』だって驚おどろいた顔をしてね。だから、江えの島しまでのことはやっぱり気のせいだと思ったんだけど……気になったから他の場所でも同じことが起きないか、調べて回ってたの」 「それで、バニーガール?」 「あの格好なら、見えてたら見るでしょ。気のせいを疑う余地がないほどに」  確かにその通りだ。あの日の咲太の反応が、その効力の高さを証明している。 「で、他の場所……ってか、湘しよう南なん台だいでも同じことが起きてたってわけか……」 「そう。今なら、世界中の人から見えなくなってるのかもって期待したんだけどな」  なぜだか、咲太を責めるような目を向けてくる。 「今日、学校でも普通だったし……今もね」  それとなく麻衣が奥おくのドア付近へ意識を促うながす。別の高校の制服を着た男子生徒が、スマホを確認する傍かたわら、ちらちらとこちらを見ている。当然、お目当ては咲太ではなく麻衣だ。 「おかしな体験をしてるのに、先せん輩ぱいは楽しそうですね」  率直な感想を咲太はぶつけた。今のところ、麻衣の様子に悲ひ壮そう感かんはない。 「そりゃあ、楽しいもの」 「正気ですか?」  意味がわからずに、疑問を視線で投げかけた。 「今までずっと人に注目されて生きてきたのよ? 人目を気にして生きてきた。だから、子供の頃ころからずっと願ってた。誰だれも私のことを知らない世界に行きたいって」  噓うそを語っているようには見えなかった。けど、それが演技だと言われても、信じるに足る理由が麻衣にはある。彼女は子役から役者をしている実力派の女優だ。  そんな話の途と中ちゆう、麻衣が電車の吊つり広告に目を向けるのに咲太は気づいた。小説の映画化作品の宣伝。主演の女優は、最近売り出し中の人気者。麻衣と同い年だったと思う。  芸能界の動向が気になるのだろうか。懐なつかしいのだろうか。いや、そういうのとは違ちがう気がした。遠くの世界を見つめるような麻衣の瞳ひとみの奥には、くすぶるような感情が揺ゆらいでいるように思えた。  言いい換かえるのであれば未練や執しゆう着ちやくと呼べるもの。 「先せん輩ぱい?」 「……」 「桜さくら島じま先輩?」 「聞こえてる」  瞬まばたきをひとつしたあとで、麻ま衣いは咲さく太たを横目に捉とらえた。 「私は今の状じよう況きように満足しているの。だから、邪じや魔まをしないで」 「……」  いつの間にか、電車は終点である藤ふじ沢さわ駅のホームに止まっていた。ドアが開く。先に立った麻衣を、咲太は慌あわてて追いかけた。 「これでわかったでしょ。私がどれだけいかれた女か」 「……」 「もう関わらないで」  きっぱりと言い切ると、麻衣は速度を上げて改札口を通過した。そのまま、ここでお別れだとばかりに咲太との距きよ離りを広げていく。  少しずつ離はなれていく麻衣の背中を、咲太はどうせ帰り道だからとしばらく追いかけた。連れん絡らく通路を渡わたり、JRの駅舎に入る。  麻衣はその一角にあるコインロッカーの前で立ち止まった。中から紙袋をひとつ取り出している。かと思えば、再びそそくさと歩き出し、パンを売っている売店に立ち寄っていた。 「クリームパンをひとつください」  おばちゃんにそう声をかける。  聞こえなかったのか、おばちゃんは無反応だ。 「クリームパンをひとつください」  再度、注文を麻衣が繰くり返かえした。  でも、やはり、おばちゃんは応じない。麻衣のことが見えていないかのように、あとからやってきたサラリーマン風の男性から千円札を受け取っている。麻衣の声が聞こえていないかのように、女子中学生にはメロンパンを手て渡わたしていた。 「すいません、クリームパン」  咲太は麻衣の隣となりに歩み出ると、大きな声でおばちゃんに声をかけた。 「はい、クリームパンね」  カウンター越しに差し出された紙袋の代わりに、咲太は百三十円を手渡す。  売店から数歩だけ離れると、麻衣にクリームパンの包みを持たせた。  麻衣は居心地が悪そうに俯うつむいている。 「本当は少しだけ困っていたりしませんか?」 「そうね。ここのクリームパンが食べられないのは困るわ」 「ですよね」 「でも……君は私の頭のいかれた話を信じるの?」 「そういう話を、なんて呼ぶのか、僕ぼくは知ってるんで」 「……」 「思春期症しよう候こう群ぐんですよね」  麻ま衣いの眉まゆがぴくりと反応した。  他人から見えなくなるという例は耳にしたことがなかったが、『他人の心の声が聞こえた』とか、『誰だれ々だれの未来が見えた』とか、『誰かと誰かの人格が入いれ替かわった』とか、そうした類のオカルトじみた出来事についての噂うわさ話ばなしは色々ある。その手のネットの相談掲示板を覗のぞけば、他にもゴロゴロと転がっている。  まともな精神科医は、多感ゆえに不安定な心が見せる思い込みだと、ばっさり切り捨てていた。自じ称しよう専門家は、現代社会が生み出した新種のパニック症しよう状じようだと語っていたし、面白がっている一いつ般ぱん人じんたちの考察の中には、「集団催さい眠みんの一種だろ」なんて意見もあった。  思おもい描えがいた理想と、ままならない現実。その間に生じたストレスがもたらす心の病気だという人もいた。  ひとつだけ共通しているのは、誰も本気にしてはいないという点。大半の大人は、「そんなのは気のせい」で流している。  その程度に無責任な意見交こう換かんの中で、誰が言い出したのかはわからないが、いつしか麻衣の身に起きているような不思議な出来事のことを、『思春期症候群』と呼ぶようになっていた。 「思春期症候群なんて、よくある都市伝説じゃない」  そう、麻衣の言う通りだ。都市伝説。普ふ通つう、誰だって信じない。誰だって麻衣と同じ反応をする。たとえ、不思議な状じよう況きようを目の当たりにしても、気のせいだと思う。体験しても素直に受け入れたりはしない。そんなことは起こるはずがないという常識の中で、咲さく太たたちは生きているのだから。  だけど、咲太には否定できない根こん拠きよがあった。 「僕が先せん輩ぱいを信じてることを信じてもらうために、先輩に見せたいものがあります」 「見せたいもの?」  訝いぶかしげに麻衣が眉根を寄せた。 「ちょっと付き合ってくれませんか?」  咲太の提案に、麻衣は少し考えたあとで、 「……わかった」  と、小さな声で頷うなずいた。     4  咲さく太たが麻ま衣いを連れてきたのは、駅から十分ほど歩いた住宅街の一角。 「ここは?」  麻衣が見上げた先には、七階建てのマンションがある。 「僕ぼくん家ちです」 「……」  疑ぎ惑わくと軽けい蔑べつがない交ぜになった視線が、真横から突つき刺ささる。 「別に、何もしませんよ」  小声で、「たぶんだけど」と付け足した。 「今、何か言ったでしょ?」 「先せん輩ぱいに誘ゆう惑わくされたら、自制する自信がないって言ったんです」 「……」  麻衣は口を真一文字に結んでいる。 「あれ? 先輩、緊きん張ちようしてる?」 「き、緊張? だ、誰だれがぁ?」 「声、裏返ってるし」 「と、年下の男の子の部屋に入るくらい、別になんともない」  ふんっと鼻を鳴らし、麻衣がすたすたと入口を目指して歩き出す。笑みを堪こらえながら、咲太はすぐさま追いかけて麻衣の隣となりに並んだ。  エレベーターで五階へ上がる。右を向いて三つ目が咲太の住んでいる部屋だ。 「ただいま~」  玄げん関かんを開けて声をかけるが返事はない。普ふ段だんなら、妹のかえでが待まち伏ぶせをしていたりするのだが、今日は帰宅時間が不規則になってしまったので、へそを曲げているのかもしれない。もしくは、単に寝ねているか、読書に集中していて、兄の帰宅に気づいていないだけかもしれないが……。 「上がってください」  靴くつを履はいたまま、玄関で硬こう直ちよくしていた麻衣を招き入れる。  入ってすぐの咲太の部屋へ通した。  麻衣は持っていた鞄かばんと紙袋を隅すみに置くと、ベッドに手をついて腰こし掛かけていた。それとなく紙袋の中を覗のぞき込こむと、バニーガールの耳が見えた。今日もどこかで、野生のバニーガールをするつもりだったのだろうか。 「ふ~ん、綺き麗れいにしてるんだ」  部屋を眺ながめていた麻ま衣いが、味気ない感想を口にする。 「散らかすほど、物がないだけですよ」 「そうみたい」  家具と呼べるものは机と椅い子すとベッドだけ。がらんとしている。 「先せん輩ぱいは……」 「ねえ」  麻衣が遮さえぎるように割り込んできた。 「なんですか?」 「その『先輩』っていうのやめて。君の先輩になった覚えはないし」 「桜さくら島じまさん?」 「名字は長いでしょ」 「じゃあ、麻衣。……って、うげっ」  麻衣にネクタイを摑つかまれて、ぐっと下に引っ張られる。 「『さん』を付けなさい」 「思い切って、ふたりの距きよ離りを縮めようと思ったんだけど……」 「私、礼れい儀ぎのない人は嫌きらいなの」  一いつ瞬しゆんで、ぴんと張った空気が生まれる。作ったのは麻衣だ。冗じよう談だんが入り込む余地はない。この、一見お堅かたいとも思える価値観は、やはり芸能界で培つちかわれたものだろうか。 「では、麻衣さん」 「君は梓あずさ川がわってイメージじゃないし、咲さく太た君って呼ぶから」  一体、麻衣の中で『梓川』とはどんなイメージなのだろうか。 「それで? 咲太君は私に何を見せてくれるの?」 「手を離はなしてくれないと見せられません」  麻衣の手がネクタイからぱっと離れる。体を起こした咲太は、解放されたネクタイを緩ゆるめ、Yシャツのボタンを外した。自然な流れで下に着ていたTシャツも一いつ緒しよに脱ぬぎ捨すてて、上半身裸はだかになる。 「ど、どうして脱ぐの!」  声を上げた麻衣は居心地悪そうに、そっぽを向いている。 「な、何もしないって言ったじゃない。フケツ! 変態! 露ろ出しゆつ狂きよう!」  罵ば声せいを浴びせながら、麻衣が恐おそる恐おそる視線を咲太に戻もどす。  その途と端たん、麻衣は、 「あ」  と、純じゆん粋すいな驚おどろきを零こぼした。  咲さく太たの胸に刻まれた三本の生々しい傷きず跡あと。巨大な獣けものの爪つめにでも引っかかれたように、右みぎ肩かたから左の脇わき腹ばらを切きり裂さいている。  やたらと大きいミミズ腫ばれのような跡。目にした瞬しゆん間かんに異常だとわかる。クマに襲おそわれてもこうはならないだろう。ショベルカーの一いち撃げきを食らって丁度いいくらいだ。でも、残念ながら咲太はショベルカーと戦ったことはない。 「ミュータントにでも襲われたの?」 「先せん輩ぱいがアメコミに興味があるとは知りませんでした」 「映画しか見てないけどね」 「……」 「……」  じっと、麻ま衣いが傷跡を見つめてくる。 「本物よね」 「こんな特とく殊しゆメイクをしているバカがいると思いますか」 「触さわってもいい?」 「どうぞ」  立ち上がった麻衣が、手を伸ばしてくる。指の先が肩の傷口にそっと当たった。 「オゥ」 「ちょっと、変な声出さないで」 「そこ敏びん感かんなんで、やさしくお願いします」 「こう?」  麻衣の指が傷口を撫なでていく。 「すごく気持ちいいです」  表情ひとつ変えずに、麻衣が脇腹をつねってくる。 「いたっ、いたいっ! 離はなして!」 「喜んでるようにしか見えない」 「ほんとに痛いんですって!」  無む駄だと思ったのか、麻衣の指が離れた。 「で? この傷、どうやってついたの?」 「いや、それがよくわからなくて」 「はあ? どういう意味よ。これを見せたかったんでしょ」 「いえ、違ちがいます。これはどうでもいいんですよ。気にしないでください」 「気になるわよ。だいたい、違うのなら、どうして脱ぬいだの」 「帰宅したら即着き替がえるのが習慣なので、つい」  そう説明しながら、咲太は鍵かぎのかかった机の引き出しに手を伸ばした。中から一枚の写真を取り出して麻ま衣いに渡わたす。 「これです」 「……っ!?」  写真に視線を落とした瞬しゆん間かん、麻衣の目は驚おどろきに見開かれた。すぐに険しい表情を作り、咲さく太たに説明を求めてくる。 「なによ、これ」  写っているのは、中学一年生の女の子。夏の制服では隠かくし切きれない両りよう腕うで、両足には紫むらさき色いろに変色した痣あざや、痛々しい切り傷が無数に刻まれている。 「妹のかえでです」  制服に包まれて見えない腹部や背中にも、同様の傷があったことを咲太は知っている。 「……暴行でもされたの?」 「いいえ。ただ、ネットでいじめられただけです」 「……言ってる意味がわかんない」  それはそうだろう。妹のいじめに関わった殆ほとんどの人間がそういう反応を示した。 「メッセージを既き読どくスルーしたとかで、クラスのリーダー格の女子から嫌きらわれて。クラスメイトが使ってるSNSのコミュニティ内で『最低』だの、『死ね』だの、『キモイ』だの、『ウザい』だの、『学校くんな』だの書かれまくったんです」  話をしながら、咲太はズボンのベルトを外した。 「そしたら、ある日、かえでの体はそうなったんです」 「ほんとに?」 「最初は僕ぼくだって誰だれかに乱暴されたんだと思いました。でも、その頃ころはもう学校に行ってなかったし、外に出てなかったんでされようがないんですよ。逆に、かえでが思いつめて自分でやったんじゃないかって疑いました」  ズボンを脱ぬぐと、椅い子すの背もたれに皺しわにならないようにしてかける。 「『いじめられた自分が悪い』って、自らを責める子はいるらしいわね」  麻衣はどういうわけか、あらぬ方向を見ていた。 「学校サボってかえでの側にいることにしたんですよ。本当のことを知りたかったんで」 「ねえ、その前にちょっといい?」 「なんですか?」 「だから、どうして脱ぐのよ」  窓に映った自分の姿を確認する。パンツ一丁。いや、靴くつ下しただけは装着している。 「だから、帰ったら着き替がえる習慣なんですって」 「なら、さっさと服を着て」  クローゼットを開けて、着替えを探す。その間も、咲太は話を続けた。 「えっと、どこまで話しましたっけ?」 「学校サボって、妹さんの側にいたらどうなったの?」 「かえでがスマホでSNSを覗のぞいた瞬しゆん間かん、体に新しい傷が増えたんです。突とつ然ぜん、太ももがスパッと切れて。血も出て……書き込みを見るたびに、痣あざもできて、どんどん増えていきました」  あれはまるで、心の痛みが体に刻まれていくのを見ているかのようだった。 「……」  麻ま衣いはどう受け止めればいいか、悩なやんでいる様子だった。 「今の話が、思春期症しよう候こう群ぐんが実在すると、僕ぼくが信じる理由です」 「……にわかには信じられないけど、こんな写真を用意してまで、作り話をする理由はないわね」  麻衣が返してきた写真を受け取り、咲さく太たは机の引き出しに入れて鍵かぎをかけた。 「その胸の三本傷もそのときに?」  小さく頷うなずく。 「人間業じゃないもの」 「ただ、なんでこの傷がついたのかはさっぱりわからないんです。朝起きたら血まみれで、病院に運ばれて……死ぬかと思いました」 「もしかして、それが病院送り事件の真相?」 「ええ。僕が病院に送られたんです」 「話がまったく逆じゃない。ほんと噂うわさは当てにならない」  ふう、と麻衣が吐と息いきをもらして、一度座り直した。  そこで、突然ドアが開き、「にゃ~」と三み毛け猫ねこのなすのが部屋に入ってきた。遅おくれて、 「お兄ちゃん、いるんです……か?」  と、ドアの隙すき間まからパンダのパジャマを着たかえでが顔を覗のぞかせる。 「え?」  困こん惑わくの声。  咲太の部屋には、パンツ一丁の兄と、ベッドに腰こしを下ろした年上の女性がひとり。 「……」 「……」 「……」  三つの沈ちん黙もく。三者の視線が一いつ瞬しゆんで絡からんだ。猫のなすのだけは無む邪じや気きに咲太の足元にじゃれついている。  最初に行動に出たのは、かえでだった。 「ご、ごめんなさい!」  謝りながら、一いつ旦たん部屋を出る。でも、すぐに再びドアの隙すき間まから中の様子を窺うかがってきた。何度か咲さく太たと麻ま衣いを見比べたあとで、咲太に対して、「こっちこっち」と手招きをしてくる。 「なんだ?」  なすのを抱だき上あげつつ、かえでに応じる。ドア口に立つと、背伸びをしたかえでが、両手で口元を隠かくしながら耳打ちをしてきた。 「デ、デリバリーな玄人くろうとのお姉さんを呼ぶなら、先に言っておいてください!」 「かえで、お前は壮そう大だいな勘かん違ちがいをしてるぞ」 「デリヘル嬢じようと制服プレイにご満まん悦えつという状じよう況きよう以外に、何があるんですか!」 「一体、どこでそんな言葉を覚えたんだか」 「一ヵ月くらい前に読んだ小説に、そういうお仕事のお姉さんが出てきたんです。哀あわれな男性を天国へ導く素敵なお姉さんだって」 「ま、解かい釈しやくは人それぞれでいいけどさ。普ふ通つう、この状況を見たら、兄が彼女を家に連れてきたんだという発想になるんじゃないか?」  その方がよっぽど自然だと思うだのが……。 「そんな最悪の事態は想像したくないです」 「最悪って、妹よ」 「最悪は最悪です。地球が滅ほろびるくらい最悪です」 「よし、ならば僕ぼくは地球を滅ほろぼす覚かく悟ごで、彼女を作るぞ!」 「ねえ、そろそろ話を進めてもいい?」  麻ま衣いに声をかけられ、部屋の中へと向き直る。その際、かえでが背中にくっついてきた。咲さく太たの右みぎ肩かたに両手を添そえて、咲太の背中に身を隠かくしながら麻衣をちらちらと見ている。ただ、背が高いせいか、あまり上手に隠れられてはいない。麻衣から見たら、結構はみ出しているんじゃないだろうか。 「お兄ちゃん、壺つぼを買わされていませんか?」 「ないな」 「絵画を見に行く約束はしてませんか?」 「してないよ」 「英会話の教材を……」 「勧められていないから安心しろ。デート商法に引っかかっているわけじゃない。この人は、学校の先せん輩ぱいだ」 「桜さくら島じま麻衣です。はじめまして」  麻衣に声をかけられたかえでは、肉にく食しよく獣じゆうから逃にげる小動物のような俊しゆん敏びんさで咲太の陰かげに身を引っ込めた。そして、背中に口を付けると、震しん動どうで何か伝えてくる。 「えと、『はじめまして、梓あずさ川がわかえでです』だ、そうです」 「そう」 「『この子は、なすのです』だ、そうです」  抱だき上あげた猫を麻衣によく見せる。「にゃ~」と鳴いたなすのの胴どうは、だら~んと伸び切っていた。 「教えてくれてありがと」  麻衣の声に反応して、一いつ瞬しゆんだけかえでが顔を出す。けれど、咲太の腕うでの中から、なすのを奪うばうと、すぐに脱だつ莵とのごとく部屋から逃げ出してしまった。ばたんとドアが閉まる。  咲太の前では、色々としゃべってくれるのに、他人に対してはいつもこうだ。以前、佑ゆう真まが遊びに来たときにも、咲太を間に挟はさまないと会話が成立しなかった。 「すいません。極度の人見知りなので許してください」 「気にしてない。あとで妹さんにもそう伝えておいて。傷はちゃんと治ったみたいでよかったわね」  不思議なことに、傷きず跡あとも綺き麗れいに消えている。それは本当によかったと思う。女の子なんだし。それなのに、どうして咲太の傷は消えないのか、その点についての疑問は残っているのだが……それは、今考えることではないので、咲太は麻衣に集中することにした。  麻衣は後ろに寄りかかるように手を突ついて、足を組み直している。 「でも、私のこと知らないなんて珍めずらしい子ね」 「それは……あんまTV見ないから」 「ふ~ん」  納得したようなしていないようなどっちつかずの表情。 「で、話を戻もどしますけど……麻ま衣いさん、帰りがけに言ってた『誰だれも私のことを知らない世界に行きたい』っていうのは、どこまでが本心?」 「百パーセント」 「ほんとに?」 「……のときもあれば、クリームパンを食べられないんだとすると、それはそれで考えものよねって、今みたいに思うときもある」  麻衣は鞄かばんからクリームパンを出すと、両手で持って小さくかぶりついた。 「真面目に聞いてるんですけど」 「……」  もぐもぐと麻衣が咀そ嚼しやくしている。  十秒ほど待って、きちんと飲み込んでから、 「真面目に答えたわよ」  と言ってきた。 「そのとき次第で、気分なんて変わるでしょ?」 「ま、そうだけど」 「じゃ、私から質問。なんでそんなこと聞くの?」  咲さく太たの目は自然とドアを映していた。見ていたのはすでにいなくなったかえでの姿。 「かえでの場合、ネット環かん境きようから距きよ離りを置くことで、一応、事態は収まりました」  SNSのコミュニティも見ない。掲示板も閲えつ覧らんしない。グループメッセージのやり取りもしない。かえでのスマホは解約して、咲太は海に投げ捨てた。パソコンだってこの家にはない。 「『一応』ね」 「診しん察さつしてくれた医者は、『お腹が痛いと思っていたら、本当に痛くなった』というやつと同じなんじゃないかって言ってました。あくまで、傷自体はかえでが自分でつけたものだと決めつけてましたけどね……」  その医者の話を全部受け入れたわけではないが、説明に関しては、納得できる部分もあった。友達からの悪口が辛つらくて、心がずたずたに引ひき裂さかれて、それが肉体に傷として現れた。側でかえでを見ていてそうとしか思えなかったし、精神状態が体調に影えい響きようを及ぼすという感覚は理解できる。嫌いやだと思うことがあれば、体は元気ではいられない。嫌きらいな食べ物を見ただけで吐はきそうになったり、プールの授業が嫌で熱を出したり……その程度の経験は誰にだってあるだろう。  だから、事態の程度こそ全然違ちがっても、『お腹が痛いと思ったらうんぬん』の話は、咲太の耳には的を射いているように聞こえたのだ。 「それで?」 「要するに傷ができる理由は、かえでの思い込みだったって解かい釈しやくなんです」 「それはわかった。で、それが私の場合にも当てはまるって言いたいわけ?」 「だって、麻ま衣いさん、学校では見事に『空気』を演じてるじゃないですか」 「……」  麻衣の表情は変わらない。咲さく太たの指し摘てきにわずかな興味を覗のぞかせながらも、瞳ひとみの奥おくで、「それで?」とだけ語り、咲太を素っ気無く促うながしてくる。こんな芸当、普ふ通つうの人間にはできない。 「ま、だから、これ以上状じよう況きようを悪化させないように、麻衣さんは芸能界に戻もどるのがいいと思うっていう話です」  咲太はあっさり視線を逸そらして、あえて軽い調子でそう告げた。妙みような駆かけ引ひきに付き合う必要はない。同じ土ど俵ひようで戦っても勝ち目はないのだ。 「なによ、それ」 「TVで目立ちまくれば、いくら麻衣さんが上手に空気を演じても、周囲が放っておかなくなるでしょ。活動休止する前みたいに」 「ふ~ん」 「それに、麻衣さん的にもやりたいことができて万ばん々ばん歳ざいだろうし」  ちらりと様子を確認しながら、咲太は最後の言葉を口にした。 「……」  ぴくりと麻衣の眉まゆが動いた。よく見ていなければ気づかない程度のごくわずかな変化。 「なによ、私のやりたいことって」  口調はあくまでさばさばしている。 「芸能界に戻ること」 「いつ、私がそんなこと言った?」  はあ、とため息を吐ついて呆あきれたという態度を取る。でも、それは演技だと咲太は思った。 「興味がないなら、どうして電車の中で、映画の吊つり広告を恨うらめしそうに見てたんですか?」  すかさず咲太は鋭するどく切り込んだ。 「あれは好きな小説の映画化だったから、少し気になっただけよ」 「ヒロインは自分が演じたかったってことではなくて?」 「しつこいわよ、咲太君」  余よ裕ゆうの笑み。麻衣の仮面は剝はがれない。  それでも、諦あきらめずに咲太は続けた。 「したいことはすればいいと僕ぼくは思う。その実力もあって、実績もあるんだし。その上、復帰を望んでいるマネージャーさんもいるなら何の問題もないでしょ」 「……あの人は関係ない」  静かな声。けれど、底から込み上げる地鳴りのような感情に言葉は支配されている。その証しよう拠こに、麻ま衣いは眉まゆを吊つり上あげて睨にらんできた。 「余計な口出しをしないで」  どうやら、地じ雷らいを踏ふんだらしい。 「……」  無言で麻衣が立ち上がる。 「あ、トイレなら、出て右です」 「帰るのよ!」  鞄かばんを引ひっ摑つかむと、麻衣は勢いよくドアを開ける。 「きゃっ」  悲鳴を上げたのは、お盆ぼんにお茶を載のせたかえでだ。丁度、ドアの前に来ていたらしい。さっきまではパジャマだったのに、今は白のブラウスと吊りスカートに着き替がえていた。 「あ、あの、あの……お茶を」  すごい剣けん幕まくの麻衣に、かえでは完全に怯おびえきっている。 「ありがと」  麻衣は一いつ瞬しゆんで笑顔を作ると、お礼を言ってグラスを摑んだ。そして、一気に飲み干す。 「ごちそうさま」  丁てい寧ねいな手つきで、かえでが持つお盆に麻衣はグラスを戻もどした。玄げん関かんに足が向く。  咲さく太たは慌あわてて部屋を飛び出し、麻衣を追いかけた。 「あ、待って、麻衣さん!」 「なによ!」  麻衣は靴くつを履はいているところだった。 「これ」  バニーの衣装が入った紙袋を持ち上げて見せる。 「あげる!」 「じゃあ、せめて送って……」  行きます、と続ける前に、 「近いからいい!」  と剝むき出だしの苛いら立だちがぶつかってきた。麻衣は玄関から飛び出していく。  追いかけようとしたが、 「お兄ちゃん、逮たい捕ほされます!」  と、かえでにパンツ一丁であることを指し摘てきされ、さすがに諦あきらめるしかなかった。  廊ろう下かに残されたのは咲太とかえで。 「……」 「……」  数秒立たち尽つくしたあとで、ふたりの視線はなんとなく紙袋の中へと落ちた。  バニーガールの衣装が一ひと揃そろい。 「それ、どうするんですか?」 「そうだな……」  耳のパーツを取り出して、とりあえず、お盆ぼんで両手がふさがって抵てい抗こうできないかえでの頭にかぶせた。 「か、かえでは着ません!」  残ったお茶を零こぼさないように、慎しん重ちような足取りでかえでがリビングに逃にげていく。  無理強いはよくないので、かえでに着せるのは一いつ旦たん諦あきらめた。いつかウサギさんプレイに興じる日が来ることを信じて、部屋のクローゼットにしまっておく。 「これでよし」  よくないのは麻ま衣いの方だ。完全に怒おこらせてしまった。 「明日、ちゃんと謝らないとな」     1  結論から言うと、麻ま衣いを怒おこらせた翌日に、咲さく太たは謝ることができなかった。  朝は電車が一いつ緒しよになる偶ぐう然ぜんに期待したのだが見事に空から振ぶり。それならばと思って、一時間目が終わった直後の短い休み時間に、麻衣のいる三年一組の教室を訪ねてみたのだが、姿はどこにも見当たらなかった。  ドア付近にいた三年生の女子に声をかけたところ、 「桜さくら島じまさん? さあ、今日来てたっけ?」  と、若干迷めい惑わくそうな顔をされた。「で、昨日なんだけどさ」と、さっさと友達との会話に戻もどってしまう。 「……」  麻衣がいない教室内は、ふざけ合う男子の先せん輩ぱいたちのバカ笑いや、きゃっきゃと談笑する女子の先輩たちの楽しげな声で満たされていた。休み時間の空気は、二年生だろうが、三年生だろうが、そう変わるものではない。この中に、ぽつんといる麻衣の姿を想像すると、なんだか胸の辺りがもやもやとした。 「席、どこですか?」 「え? ああ、あそこ」  女子の先輩が指差したのは、窓側から二列目の一番後ろ。ぽつんと置かれた机に、鞄かばんがあるのを確認して、咲太は自分の教室に戻ることにした。  その後も、休み時間のたびに三年の教室に足を運んだが、麻衣はいなかった。相変わらず鞄は置いてあるし、次の授業の教科書が机の上に出されていたので、学校に来ていることは間ま違ちがいないと思う。けれど、すべて無む駄だ足あしに終わった。  こうなると最後の望みは下校時間。HRの終了と同時に、咲太は足早に昇しよう降こう口ぐちへと向かった。周囲を見回して、麻衣を捜さがす。二十分ほどそうしていた。  見つからないとわかると、校門を出て駅までの道を当たった。やはりいない。七しち里りヶが浜はま駅のホームにも、麻衣の姿は見当たらなかった。  結局、この日は仲直りどころか、会うことすらできなかったのだ。  そして、そんなことが三日も続くと、意識的に避さけられているのだとバカでも気が付く。  困ったことに、麻衣の徹てつ底ていした態度はその後も緩ゆるむことなく続いた。  それから、あれよあれよと二週間。今も咲太は見事に避けられている。  昨日の帰りは、思い切って駅で待まち伏ぶせをしたのだが、それも実を結ばなかった。麻衣はひとつ隣となりの駅まで歩いて電車に乗ったらしく、一時間以上待っても姿を現さなかったのだ。  とにかく手強い。  これが芸能活動の中で身に付けた取材カメラの回かい避ひテクニックなのだろうか。時々、霧きりのように消えてすらいる。 「どうやら、僕ぼくはとんでもないサイズの地じ雷らいを踏ふんだらしいな」  麻ま衣いの頑かたくなな態度から、咲さく太たは日に日にその想いを強くしていた。  怒おこらせた原因は、芸能界への復帰を促うながしたこと。直接的な引き金になったのは、恐おそらく『マネージャー』という単語だ。  その辺が、芸能活動を休止したことや、復帰したいという気持ちがありながらも、麻衣が復帰を躊躇ためらっている理由なのではないだろうか。  学校のパソコンを使って調べてみたが、『桜さくら島じま麻衣』が活動休止を決めた理由に関しては、「過労じゃね?」とか、「やっぱ、プロデューサーとなんかあったんだろ」とか、「どうせ男でしょ」とか、勝手な憶おく測そくや噂うわさ話ばなしくらいしか見つからなかった。  こうなると本人に直接聞くほかないのだが、その本人が咲太を完かん璧ぺきに避けている。これではどうしようもない。  その日の放課後、むやみに追つい跡せきしてもダメだと悟さとった咲太は、少し気分を変えることにした。掃そう除じ当番を終わらせてから、物理実験室に足を伸ばす。  もうひとりの友達に会うためだ。  ドアを軽くノックしてから、返事を待たずにスライドさせる。 「邪じや魔まするぞー」  中に入ってドアを閉めると、 「邪魔だから出て行け」  と、遠えん慮りよのない言葉が飛んできた。  広い物理実験室の中にいた生徒はひとりだけ。教師が授業をする際に使う黒板前の机にアルコールランプとビーカーを用意している。入ってきた咲太を見ようともしない。  身長は約155センチと小こ柄がら。眼鏡をかけた女子生徒。制服の上からまとった白衣がやたらと目を引く。背筋の伸びた佇たたずまいは、なんだかかっこいい。  名前は双ふた葉ば理り央お。県立峰みねヶが原はら高等学校の二年生。去年は咲太、佑ゆう真まと同じクラスだった女子生徒。部員たったひとりの科学部に所属。部活の実験中に学校の一部を停電させたとか、ボヤ騒ぎを起こしたとかで、変人として知られた存在。常に白衣を着ているのも、変に目立つ理由となっている。  咲太は近くの椅い子すを持ってくると、机を挟はさんで理央の真向かいに座った。 「最近、どうだ?」 「梓あずさ川がわに報告するようなことは何もないよ」 「なんか楽しい話を聞かせてくれよ」 「ヒマを持て余した高校生のような会話に私を巻き込むな」  視線を上げた理り央おが咲さく太たを睨にらんでくる。本当に邪じや魔まだと思われているのかもしれない。 「実際、ヒマを持て余した高校生なんだし、らしくていいだろ」  なおも世間話を続けようとする咲太を無視して、理央はアルコールランプにマッチで火をつけた。水を入れたビーカーの下にセットする。何かの実験をする気だろうか。 「最近、梓あずさ川がわの方こそどうなんだ?」 「どうって、特に報告することはないな」 「噓うそ言え。人気子役にご執しゆう心しんらしいじゃない」  誰だれのことを言っているのかは考えるまでもない。人気子役とは麻ま衣いのことだ。 「あの人は、とっくの昔に子役を卒業して、役者とか俳はい優ゆうとか女優だろ」  活動休止中の今は、一いつ般ぱん人じんと呼ぶべきなのかもしれないが。 「だいたい、その話、誰に聞いたんだ?」 「愚ぐ問もんだね」 「ま、国くに見みしかいないな」  咲太の事情を知っているのは佑ゆう真まだけ。学校内で常に白衣を着ている変わり者として浮ういている理央に話しかけるのも、やっぱり佑真と咲太くらいだ。以上、証明終了。 「心配してたよ。梓川がまた妙みようなことに首を突つっ込こんでるんじゃないかって」 「またってなんだ」 「ろくでもない梓あずさ川がわの心配をするなんて……どうして、国くに見みはあんなにさわやかでいいやつなんだろうね」 「そのメカニズムがわかったらぜひ教えてくれ」  性格がいいとは、佑ゆう真まのためにある言葉だと思う。心底そう思う。  去年、『病院送り』の噂うわさが校内に流れたときも、佑真だけは咲さく太たへの態度を変えなかった。噂を鵜う吞のみにするのではなくて、体育の時間にペアを組んだ際に、「あの噂ってまじ?」と、面と向かって尋たずねてきた。 「まじなわけがない」 「だよな」  からっと佑真は笑っていた。 「……国見は、僕ぼくの言い分を信じるのか?」  はっきり言って意外だった。殆ほとんどのクラスメイトが噂の方を信じ、咲太に確認する前に距きよ離りを置いていたから。 「だって、違ちがうんだろ?」 「そうだけどさ」 「なら、誰が言い出しかわかんない噂より、目の前にいる梓川の話を信じるよ」 「国見って最悪だな」 「は? 今の流れでどうしてそうなるんだよ」 「性格までイケメンとか、もはや、全男子の敵だ」 「なんだそりゃ」  それが、今から一年ほど前の出来事。以来、佑真とはよく話をするようになっていった。  ぼんやりとアルコールランプの火を見つめていると、 「まったく世の中は不公平だね」  と、なにやら失礼な視線が突つき刺ささってきた。 「人はこんなにも違う」  明らかに、理央は憐あわれみの目で咲太を見ている。 「僕を国見との比ひ較かく対象物にするのはやめろ」 「他意しかないよ。気にしないで」 「それ、気になるだろ。ま、でも、ああいうやつに限って、人には言えない変態趣味を隠かくし持もってたりするんだよ。そうやって、世界は『さわやか度』のバランスを取ってるはずだ」 「梓川は今日も底辺だな」  ふう、と理り央おがため息を落とす。 「どこが?」 「心配してくれている友人を、陰かげで変態呼ばわりするようなところ」  反論の余地がない見事な指し摘てきだ。 「……僕ぼくは今、国くに見みとの差を思い知らされた気がするよ」 「それはそうと」  理り央おがわざとらしく前置きをする。 「なんだよ?」  ビーカーの水がぶくぶくと沸ふつ騰とうしはじめていた。 「牧まき之の原はらのことは吹っ切れたんだ」 「……国見といい、なんでそこに結び付ける」 「梓あずさ川がわが一番よくわかってるんじゃないの?」  理央はアルコールランプの火を消すと、ビーカーのお湯をマグカップに移した。そこへ、インスタントコーヒーの粉をひと匙さじ落とす。どうやら、実験ではなかったらしい。 「僕にもくれ」 「あいにく、マグカップはひとつしかない。まあ、このメスシリンダーでいいか」  長さ約三十センチ。細長い円筒状のガラス器機を理央が平然と差し出してくる。 「こんなものでコーヒーを飲もうとしたら、中身が一気に流れてきてえらいことになるだろ」 「梓川の仮説が正しいかどうか、実験で検けん証しようする必要がある。それに、他に目ぼしい代用品もない」 「お湯を沸わかしたビーカーをそのまま使うっていう発想はないのか」 「当たり前すぎて面白くない」  文句を言いながらも、理央はビーカーの残ったお湯に、インスタントコーヒーの粉を入れてくれた。 「双ふた葉ば、砂糖は?」 「私は入れない」  引き出しから理央がプラスチックボトルを出して、どんと咲さく太たの前に置く。ラベルには二酸化マンガンと書いてある。 「大だい丈じよう夫ぶだろうな、これ……」 「中身はたぶん砂糖だよ。白いし」 「白い粉なんて他にも無数にあることくらい、僕だって知ってるぞ」  とりあえず、二酸化マンガンが黒いことも知っている。 「一応、少量ずつ試した方がいい」  理央のリアルな忠告は無視して、咲太はブラックでいただくことにした。  それを見て、なんとも残念そうな顔をした理央は、再びアルコールランプに火をつけていた。今度こそ実験をするのかと思いきや、金かな網あみをセットして、スルメを炙あぶりはじめた。スルメの足がくた~と曲がっていく。 「僕ぼくにもくれ」  コーヒーに合うとも思えなかったがにおいを嗅かいでいたら食べたくなった。  足を一本だけちぎって理り央おが分けてくれる。  それをかじりながら、咲さく太たは本題を切り出すことにした。 「あのさ、人が見えなくなることってあると思うか?」 「視力が心配なら眼科に行けば?」 「いや、そういう問題じゃなくて……そこにいるのに見えないっていうか。透とう明めい人間になる的な」  麻ま衣いの場合、見えない相手には声も届かないという症しよう状じようも出ているので、実際は少し違ちがうのだが……まずは初歩的なところから聞いておきたい。 「で、女子トイレに忍しのび込こむわけ?」 「スカトロ趣味はないから、更衣室にしとくよ」 「さすが梓あずさ川がわ、ブタ野郎だね」  理央の手が鞄かばんに伸びる。ポケットに突つき刺ささっていたスマホを摑つかんでいた。 「どこに電話する気だよ?」 「警察」 「事件が起こるまで警察は何もしてくれないぞ」 「それもそっか」  理央がスマホを鞄に戻もどした。 「さっきの質問だけど、物が見える仕組みについてなら、物理の教科書に書いてあるよ。光とレンズの勉強をすればいい」  どんと、理央が咲太の前に物理の本を置いた。 「それが面めん倒どうだから、双ふた葉ばに聞いてるんだよ」  出された本を、咲太は丁重に返へん却きやくした。  それを気にせずに、理央はスルメをかじっている。 「重要なのは光。対象物に光が当たって、そこから反射してきた光が目に入ることで、人はそのものの色や形を認識してる。光の当たらない暗くら闇やみでは物は見えない」 「反射ねぇ」 「ぴんと来てないなら、音に置おき換かえて考えてみれば? イルカの超ちよう音おん波ぱの話くらいは聞いたことあるでしょ」 「何かに反射して戻ってきた超音波を聞いて、障しよう害がい物ぶつとの距きよ離りを測るっていう?」 「そう。実際には姿かたちもわかっているらしい。船のソナーも同じ。光だとイメージしにくいのは、そもそも眩まぶしいと感じるくらいの光じゃないと、光が目に入っているっていう実感がないからかもね」 「ふ~ん」 「つまり、光を反射しない透とう明めいなガラスなんかは見えにくい」 「あ~、確かに」  ならば、麻ま衣いの体には光が当たっていないとでもいうのだろうか。活動休止中の芸能人だけに、なんだかその表現は皮肉めいていて笑えない。  もしくは、無色透明なガラスのように、麻衣が光を反射していない……という考え方でもいいのかもしれないが、それでも説明がつかないことはまだまだたくさんある。  声のこともそうだし、見える人がいたり、見えない人がいたりする。状じよう況きようはもっとややこしいのだ。 「今の話は、なんとなくわかった」 「本当に?」  疑いの眼差し。 「双ふた葉ばって、僕ぼくをバカだと思ってるだろ」 「いいや」 「超バカだと思ってるのか?」 「私の言いたいことに察しがついているくせに、わざわざそういうことを聞いてくるウザいやつだとは思ってる」 「ウザいってお前ね」 「空気を読めてるくせに、あえて読めてないふりができる嫌いやなやつだとも思ってる」 「僕が悪かった。これ以上抉えぐるのはやめてくれ」 「そうやって上手に逃にげるとこなんて、まさにね」  ずずっと無感動に理り央おがコーヒーを飲む。  これは早々に話題をもとに戻もどした方がよさそうだ。 「えっと、じゃあ、今度は条件を限定して聞くが、こうして双葉の前に座っている僕が、双葉から見えなくなるというのは可能か?」 「私が目を閉じればいい」 「目を開けたままで、真っ直ぐ僕を見てだよ」 「可能だよ」  理央の返答は想像とまったく逆で、しかもあっさりしたものだった。 「私が何かに没ぼつ頭とうするか、ぼ~っとすればいい。梓あずさ川がわのことなんか気にならなくなる」 「いや、そういうのとはちょっと違ちがくてだな」 「まあ、最後まで聞きなよ。光とは別の観点の話で……『見える』ということに関しては、物理現象よりも人間の脳の働きが強い影えい響きようを及ぼすこともある」  コーヒーがなくなったのか、理央が別のビーカーに水を入れて、アルコールランプの上に置いた。 「たとえば、梓あずさ川がわから見て私は小さいんだけろうけど、小学生から見れば大きいと言われるはずだよ」 「いや、双ふた葉ばは大きいだろ。いつも白衣着てガード固いけど、その上からでもそれはわかるぞ」  視線は理り央おの膨ふくらんだ胸元へ注がれる。 「む、胸のことは言うな」  理央が女の子みたいに、両手で胸を隠かくす。 「あー、すまん。気にしてたのか」 「梓川の中には、デリカシーや羞しゆう恥ち心しんという概がい念ねんはないらしいな」 「その辺に落としてきたのかも」  キョロキョロと周囲を見回す。 「真面目に聞く気がないなら帰れ。講義は終わりだ」  理央が席を立つ。 「悪い。真面目に聞く。胸も見ない」 「だから、胸の話をするな」  実際、見ないと言って本当に見ない自信はない。視線がそこへ吸い込まれるのはもはや無意識なので、遺伝子レベルの修正を施ほどこさない限り、実現するのは難しいだろう。  コーヒーに口を付けてお茶を濁にごす。 「つまり、見えるものについては、主観が入るってことだよな?」 「そう。見たくもないものは見ようともしない。そんな芸当も、人間の脳にはできる」  見て見ぬふりをするなんて言葉もあるくらいだ。眼中にない。気にも留めていなかった。意識してない。言い方は色々あって、納得できる部分は多々ある。  ただ、先ほどからの理央の話は、咲さく太たがなんとなく思おもい描えがいていた麻ま衣いの状じよう況きようを、真っ向から否定するものでもあった。  乱暴に言えば、咲太は麻衣が『空気』を演じることで、周囲から見えなくなっているんじゃないかと考えていた。麻衣に原因があると思っていた。  けれど、理央の言葉は、全部見る側の観点で語られている。つまり、見られる側の思い込みとか、立場は関係ないという理論。 「観測理論というものもある」  咲太の考えがまとまる前に、理央が次のボールを投げてきた。 「かんそくりろん?」  知らない言葉をそのまま繰くり返かえす。 「極きよく端たんな言い方をすれば、この世に存在するものは、『誰だれかが観測してはじめて存在が確定する』……という、普ふ通つうに聞くと、とんでもない理論だよ」  特に何の感情もなく淡たん々たんと理り央おが語る。 「箱の中の猫ねこの話くらい、聞いたことがあるでしょ。シュレーディンガーの猫」 「あ~、名前だけは」  理央は机の下から空っぽの段ボール箱を用意すると、それを咲太の目の前に置いた。 「この中に猫と」  そう言いながら、理央がまず招き猫の貯金箱を段ボール箱に入れる。物理教師が五百円玉貯金に使っているやつだが、随ずい分ぶん軽そうだ。 「さらに、一時間に一度の確率で放射線を発する放射性原子と……」  続けて、お湯を沸わかしていたビーカーを理央が投入する。 「その放射線を感知して蓋ふたが開く毒ガス入りの容器を一いつ緒しよに入れておく。蓋が開けば、毒ガスを吸って猫は確実に死ぬと思っておいて」  最後に、二酸化マンガンのプラスチックボトルが段ボール箱の中に収められた。 「これで蓋をして三十分待つ」  そう言いながら、理央が段ボール箱の蓋を閉じた。 「さて、ここに三十分待った箱を用意した」 「料理番組か」  咲さく太たのツッコミは無視して理央が続ける。 「箱の中の猫はどうなってると思う?」 「え~と、一時間に一度の確率で、放射性原子は放射線を出すんだよな? で、その放射線を感知して、毒ガス入りの容器の蓋が開くんだろ?」  無言で理央が頷うなずく。 「そんでもって、三十分ってことは半分だから……二分の一の確率だよな?」 「驚おどろいた。話を理解してたんだ」 「この程度がわからなかったら、僕ぼくは相当のバカか、話を聞いていなかったかのどっちかだ」 「では、猫は生きているか死んでいるか」 「だから、五分五分だろ? 調べたきゃ、箱を揺ゆすればいい」 「箱は鋼鉄製で動かないように固定されている」  目の前にあるのは段ボール箱だ。 「じゃあ、生きていることを信じるよ」 「梓あずさ川がわがどちらに山を張ろうと、この場合、どっちもいいんだけどね」 「なら、聞くなよ」 「今の猫の状態を『確定』するには見るしかない」 「随分、普通のやり方だな」  理央が段ボール箱の蓋ふたを開ける。当然、招まねき猫ねこの貯金箱とビーカー、それと二酸化マンガンのプラスチックボトルが中にはあった。 「箱を開けた瞬しゆん間かんに、猫の生死は確定する。つまり、箱を開けて確認するまでは、半分生きてて、半分死んでることになる。量子力学の世界ではね」 「なんだ、その理り屈くつ。たとえば、蓋をして十分後に死んでたとするだろ? だったら、残り二十分を待って蓋を開けるまでもなく、猫は死んでるんじゃないのか」  少なくとも猫にとっては、そこで人生終了。いや、この場合は猫生だが……どの道、結果は同じだ。 「だから、最初にとんでもない理論だって言ったでしょ。ま、量子力学の解かい釈しやくは置いておくとしても、考え方自体は真理を突ついていると私は思うけどね」 「真理ね~」  どうにも胡う散さん臭くさい。 「人間は見たいようにしか世の中を見ていない。梓あずさ川がわの噂うわさがいい例だよ。真実よりも、噂が優先される。梓川は箱の中の猫で、その他全校生徒が観測者であるとすれば、現実に置おき換かえて考えることもできるんじゃないの?」  箱の中の事情よりも、あとからそれを見た人間の主観が優先される……と理り央おは言いたいらしい。当事者である咲さく太たの視点など関係なく、見る側の観点で咲太の印象が決まってしまう。 「笑えないな、それ……」  ただ、麻ま衣いの事例と合わせて考えるのは、なかなか難しかった。咲太には見えて、他の人には見えない状じよう況きようがあったり、どういう条件で『見えなくなる』ことが起きているのかわかっていない。  面白い話は聞けたが、まだピースがはまらない感じ。  そもそも思春期症しよう候こう群ぐんなんて眉まゆ唾つば物ものの現象を、物理的な解釈で説明できるのかも不明だ。何か手がかりになりそうな部分はあったけど、理央に相談したことで、余計に状況が難しく思えてきていた。  麻衣に起きていることは、麻衣が芸能界に復帰するだけでは解決しないかもしれない。そんな嫌いやな気分が、咲太の胸には落ちている。理央の話は終始、見る側の立場で語られていたから……。麻衣の意識が変わるだけでは、どうにもならないかもしれないのだ。 「補ほ足そくになるけど、観測することで結果が変わるっていう事例は、実際に物理の世界にはあるんだよ」 「まじ?」 「二重スリットの実験っていうのがあって……すごく単純に結論だけを言えば、実験の途と中ちゆう経過を観測した場合と、最終結果だけを確認した場合で、現れる結果が変わってくるって例なんだけどね」 「それは、つまりだ……サッカー日本代表の試合があったときに、結果だけをスポーツニュースで見たときは勝ってるのに、僕ぼくが試合を見るときに限って負けるって話でいいのか?」 「私が言ったのは、あくまで粒りゆう子しの世界……ミクロの世界での話。観測するまで、粒子の位置は確率的に存在していることになっていて、物質ではなく、波の形をしているわけ。観測することで、物質という姿に収縮するんだってさ」 「でも、そのミクロが集まって、人とか物になってるんだろ?」  分子とか原子とか、電子とか、色々なもので人や物が構成されていることくらいは咲さく太ただって知っている。 「今言った話がマクロの世界で起こるなら、梓あずさ川がわの解かい釈しやくでもいいよ。あと、今後、日本代表のために、梓川はサッカーの観戦はしない方がいい。二度と見るな」  理り央おからありがたい忠告を受けていると、  ──二年二組の国くに見み君。バスケ部顧こ問もんの佐さ野の先生がお呼びです。職員室まで来てください  という、校内放送が流れた。 「……あいつ、なんかやったのか?」 「梓川じゃないんだ。どうせ、部活の練習メニューの確認とかでしょ」  興味などなさそうだけど、理央が佑ゆう真まの肩かたを持つ。  スピーカーに目を向けたついでに、時刻を確認した。三時を少し回っている。 「あ、バイトあるから帰るな」 「勝手に帰れ」 「色々サンキュ。コーヒーもご馳ち走そう様さま」 「礼なら顧問の物理教師に言って。これ、私のじゃないから」  理央はインスタントコーヒーの瓶びんを持って、蓋ふたに書かれた名前を見せてきた。 「ま、少し減ったくらいばれないだろ」  そう言って席を立つと、鞄かばんを肩にかけながら歩き出した。  ドアに触ふれたところで、ふと思い出したことがあって咲太は後ろを見た。理央はいよいよ真面目に実験をするつもりらしく、ガスバーナーの火を調整している。 「双ふた葉ば」 「ん?」  声だけが返ってきた。視線は青白い炎に注がれたままだ。 「国見のこと、大だい丈じよう夫ぶか?」 「……」  揺ゆれる瞳ひとみで理央が咲太を見つめてくる。  すぐに、 「だい……」  と、何か言いかけて言葉を詰つまらせた。恐おそらく、大だい丈じよう夫ぶと言おうとして失敗したのだ。声は上うわ擦ずり、いつも通りを意識した理り央おの表情は強張っていた。 「もう慣れたよ」  大丈夫は諦あきらめて、理央は力のない顔で微ほほ笑えんだ。  咲さく太たにはどうすることもできない。理央の叶かなわぬ片想いを側で見ていることしかできない。 「バイト、遅おくれるよ」  さっさと行けとあごで合図する。それに見送られて、咲太は物理実験室を出た。  後ろ手にドアを閉めたところで、 「慣れたって……それ、全然諦めついてないだろ」  と、無意識に呟つぶやいていた。     2 「梓あずさ川がわ君、ディナーで忙いそがしくなる前に、休きゆう憩けい入って~」 「はい」  ファミレスの店長にそう言われ、咲太が男子更衣室にもなっている休憩スペースに顔を出すと、丁度着き替がえの終わった佑ゆう真まがロッカーの陰かげから出てきた。部活のあとなのに、疲つかれた様子はまるでない。  その佑真の目が咲太に気づいた。 「よっ」 「おう」  さわやかな笑顔でエプロンの紐ひもを結ぶ佑真に、咲太は無愛想に応じた。 「咲太は休憩?」 「じゃなきゃ、ホールにいる」 「だよな……よし」  びしっとエプロンが結べたらしい。鏡の前で身だしなみのチェックをしている。 「あ、そだ。咲太」  何か思い出したように、佑真が再び話しかけてくる。 「ん?」  パイプ椅い子すに座って、テーブルの上に置かれたポットからお茶を注ぐ。それをずずっとすすった。 「お前、俺おれに隠かくしてることあるだろ」 「なんだその言い方。国くに見みは僕ぼくの彼女か」  一いつ瞬しゆん、ドキッとしたのは、理央の片想いのことかと疑ったからだ。でも、佑真の口から出たのは別の名前だった。 「冗じよう談だんじゃなくて、上かみ里さとのこと」 「あー」  ほっとしながら、視線を逸そらす。あれはあれで、あまり触ふれられたくはない。けれど、二週間前に咲さく太たが上里沙さ希きから屋上に呼び出されたことを、佑ゆう真まは知っている様子だった。  恐おそらく、本人の口から聞いたのだろう。こうなっては逃にげようがない。 「国くに見みの彼女、すごいな」 「だろ? 自じ慢まんの彼女」 「お前としゃべるなって言われたぞ」 「独どく占せん欲よくが強くてさ。俺おれ、めちゃくちゃ愛されてるんだよ」 「僕ぼくが国見といると国見の株が落ちるらしい。今、お前、いくらだ?」 「なんつーか、すまん!」  両手を合わせて、佑真が頭を下げる。 「お前もすごいよな」 「なにがよ?」 「こんだけ誘ゆう導どうしてんのに、一言も彼女の悪口言わないとかさ」 「そりゃあ、好きで付き合ってるんだし。ちょっと思い込みが激しいとこあるけど、真っ直ぐでいい子だよ」  ちょっと真っ直ぐすぎる気もするが……。 「なんだその旦だん那なにDV受けてる嫁よめのような発言は」 「『彼、時々やさしいの』ってか? バカ言え」 「ま、僕のことは気にするな。上里に何を言われたところで痛くも痒かゆくもない」 「それはそれで複雑だな」  困ったように佑真が笑う。 「それより、僕の方こそ悪かった」 「なんだよ、急に」 「彼女の悪口なんか聞かされて、気分いいはずないもんな」 「気にしてねーよ」 「それは上里に悪いだろ」 「あ、それもそっか」  屈くつ託たくなく佑真が笑う。 「てか、いいんだよ、それは。それよか、咲太、今後も変な気を遣つかうなよ。俺を避さけたらそれこそ怒おこるぞ」 「彼女とケンカになっても僕は責任取らないぞ」 「そんときゃそんときだし……なんとなく、怒いかりの矛ほこ先さきは咲さく太たに行くような気がするから大だい丈じよう夫ふだろ」  さらっと、面めん倒どうなことを言ってきた。 「おい、ちょっと待て、こら」 「痛くも痒かゆくもないなら平気だろ?」  佑ゆう真まが勝ち誇った笑みを浮うかべる。 「さすが女子に、『生理か?』って言える男は違ちがうな。咲太の心臓ってなに? 鉄で出来てんの?」  けらけらと佑真が笑い声を上げる。 「あ、やべ、時間」  時計を見た佑真が慌あわててタイムカードを通す。 「国くに見み、入りまーす」  そのままホールの方へと出ていった。  でも、一分と経たずに休きゆう憩けいスペースへ戻もどってくる。何か忘れ物だろうか。特に忘れるようなものもないはずだが……。  佑真の視線は迷うことなく咲太へと注がれていた。何か言いたいことがありそうだ。 「なに?」 「例の女子アナ、また来てるぞ」  隙すきのない佑真の表情。真しん剣けんさの中に、咲太を心配する穏おだやかな色が混ざっている。それが、咲太にとって歓迎すべき客ではないことを、雄ゆう弁べんに語っていた。  休憩時間を無視してホールに出た咲太は、真っ直ぐ奥おくのテーブルに向かった。四人掛がけのボックス席に、二十代後半の女性がひとりで座っている。清せい潔けつ感かんのある春らしい色合いの半はん袖そでブラウスに膝ひざ下したのスカート。派手さを抑おさえたナチュラルなメイク。どこか知的で、全体の雰ふん囲い気きはアナウンサーっぽい。実際、本物のアナウンサーなのだが……。 「ご注文をお伺うかがいします」  あくまで事務的に咲太は声をかけた。 「お久しぶり」 「どちら様でしたっけ?」 「なるほど、そう来るか。では、はじめまして私はこういうものです」  丁てい寧ねいな手つきで、女性が名めい刺しを差し出してくる。  TV局のロゴ。アナウンス部所属。中央には、『南なん条じよう文ふみ香か』と名前が印刷されている。  ああは言ったが、本当は面識がある。妹のいじめ事件のときに、『中学生のいじめ問題』という名目で、取材にやってきた文香と会っているのだ。それから、もう二年近い付き合いになる。 「今日は何の用ですか?」 「生シラスの取材で近くまで来たの。夕方からはオフだったので、会いに来ちゃった」  わざとらしくはしゃぐ文ふみ香かを前にしても、咲さく太たは表情を崩くずさなかった。文香の目的はわかっている。いじめの取材の中で、彼女は思春期症しよう候こう群ぐんの存在を知り、興味を抱いだいたのだ。もちろん、そんな都市伝説を真っ向から信じているわけじゃない。半信半疑で懐かい疑ぎ的てき。でも、本当だったら大スクープになる可能性もあるので、諦あきらめきれないと、以前に文香自身があっけらかんと語っていた。 「オフなら野球選手を誘さそってデートでもしたらどうですか? 女子アナらしく」 「魅み力りよく的てきな提案だけど、シーズン中の今、目ぼしい一軍の選手はお仕事中よ」  時刻は午後六時。プレイボールの時間だ。 「それに、デートだけならここでもできるしね」  意味深な視線を文香が咲太に向けてきた。 「僕ぼくはおばさんに興味ないんで」 「子供の咲太君には、わかんないかなぁ。この大人の魅力が」  頰ほお杖づえを突ついて、咲太の顔を下から覗のぞき込こんでくる。 「三ヵ月前に会ったときより、太ったのはわかります。二にの腕うで、そろそろやばいですよ」 「……っ!」  ぴくっと眉まゆが吊つり上あがった。少しむっとしたようだ。背もたれに体を預けて、 「かわいくないなあ」  と言ってきた。 「どうせならかっこよくなりたいんで……ご注文は?」 「咲太君をお持ち帰りで」 「頭がおかしいようなので、ご注文は救急車一台でよろしいですね」  淡たん々たんと言葉を返す。 「チーズケーキのドリンクセット。ホットコーヒーで」  メニューを見ずに注文してくる。ここに来るときは、文香は必ず同じものを頼たのむのだ。なんというか、この辺の行動は男っぽい。 「以上でよろしいですか?」 「事件のこと、まだ話す気になれない?」  鞄かばんからスマホを出して、文香はメールのチェックをはじめる。 「一生なりません」 「胸の傷、一枚写真に撮とらせてくれるだけでいいんだけど」 「嫌いやです」 「どうして?」  指でなぞって画面をスクロールさせている。 「じゃあ、南なん条じようさんの裸はだかの写真も撮とらせてくれますか?」 「うん、いいわよ」 「ここに痴ち女じよがいますよー」 「個人で使うだけにしてよ? ネットに流出とかはさすがに会社クビになっちゃう」  相手にするのもバカらしくなって、咲さく太たは返事をせずに立ち去ろうとした。  でも、二、三歩離はなれたところで、ふとあることを思いついてしまった。 「あの」  戻もどって文ふみ香かに声をかける。 「ん?」  スマホを見ながらの上の空の返答。 「南条さんは、桜さくら島じま麻ま衣いを知ってますか?」  少し躊躇ためらいつつもその名前を口にした。 「逆に、知らない人っているの?」  文香の視線はまだメールを確認中だ。 「彼女が、活動休止した理由……南条さんは知ってたりします?」  ワイドショーでアシスタントをしているし、芸能ニュース系の取材を文香が行っているのは知っている。 「……」  きょとんとした顔を文香は向けてきた。どうして、咲太が『桜島麻衣』のことを聞いてきたのか、疑問に思っているようだ。でも、それはすぐに別の感情に置おき換かわる。  咲太がそんなことを聞いてきたことに対する興味だ。  ただし、文香はそれを表情には出しても、あえて聞いてはこなかった。 「少なくとも、一いつ般ぱん人じんが知らないようなことを私は知ってると思うわよ」 「そうですか」 「で? これは子供としてのお願い? それとも大人同士の対等な取り引き?」 「子供扱あつかいはやめてください」 「そう。だったら、タダでは教えられないけどいいのね?」 「写真、一枚でいいのなら」 「ふふっ、交こう渉しよう成立ね」  何かスイッチを切きり替かえるように、文香はいじっていたスマホを鞄かばんに戻もどした。その文香の視線に促うながされ、咲太は大人同士のテーブルに着いた。  九時までバイトに勤しんだ咲さく太たは、途と中ちゆうコンビニに寄ってから帰路についた。人通りの少ない住宅街を通り、十分ほどとぼとぼと歩いて住んでいるマンションに到とう着ちやくする。  エレベーターで五階までノンストップで上がると、部屋のドア付近に、誰だれかがいることに気づいた。  壁かべを背に座り込んでいるのは、峰みねヶが原はら高校の制服を着た麻ま衣いだ。体育座り。それも、両りよう膝ひざと太ももはぴったりとくっつけて、膝下だけ開いた女の子体育座りだ。下のオートロックは、誰かをストーキングするなりして、中に入ったのだろう。  側まで行くと、恨うらめしそうに麻衣が見上げてきた。 「やっと帰ってきた」 「バイトだったんですよ」 「どこで?」 「駅前のファミレス」 「へ~」 「麻衣さん」 「なによ」  まずは「パン」と手を叩たたく。「ツー」とピースサインを続けて、「丸」っと頭の上に両手で円を作った。最後に、親指と人差し指をくっつけて眼鏡を作り、自分の顔に持っていく。もちろん「見え」という意味だ。 「それ、何の遊び?」  バカにしたような目。どうやら、黒のタイツ越しに、純じゆん白ぱくのパンツが見えていることに、まったく気づいていないようだ。無防備すぎる。  仕方がないので、 「パンツ丸見え」  と、はっきり指し摘てきしてあげた。  はっとなった麻衣が、自分の下半身を確認するように俯うつむく。 「べ、別に年下の男の子に下着を見られるくらいなんでもない」  とか言いながら、股またの間に腕うでを挟はさむようにして、スカートの真ん中をそれとなく下に引っ張っていた。あからさまに見えているより、むしろ、隠かくそうとしている姿の方がエロく感じるのはどうしてだろうか。 「顔真っ赤なのに?」 「そ、それは、興奮してるから!」 「うわっ、ここにも痴ち女じよがいた」 「誰が痴女よ!」  じっと、麻衣が睨にらんでくる。 「ま、とりあえず、立てばいいと思います」  そっと麻ま衣いに手を差し出す。  触ふれそうなところまで伸びてきた麻衣の手だったが、まだ仲直りをしていないことでも思い出したのか、急に引っ込んだ。「ふんっ」と鼻を鳴らしながら、麻衣は自分で立ち上がる。 「なにを握にぎったかわからない男の子の手なんて、触さわりたくない」  勝かち誇ほこったような笑みを麻衣が浮うかべる。なんだか楽しそうだ。でも、その優越感は長くは続かなかった。「ぐぅ」と腹の虫が鳴いたのだ。 「……」 「……」 「オナカヘッタナー」  棒ぼう読よみでフォローしておく。 「性格悪い」 「まあまあ自覚してます」  咲さく太たは帰りに寄ったコンビニの袋から、クリームパンを取り出した。  少し迷ったあとで、麻衣の手がゆっくりと伸びてくる。なんだか野の良ら猫ねこにエサでもあげている気分だ。  麻衣は包みを開けて、クリームパンにかぶりついた。 「いつから腹ペコキャラに転身したんですか」 「……」  無言での咀そ嚼しやくが続く。  きちんと口の中身を飲み込んだあとで、 「買い物ができないの」  と、まるで咲さく太たのせいだと責めるような口調で言ってきた。 「あー、そっか」  他人からは姿が見えないから、麻ま衣いは会計を通ることができないのだ。前に駅の売店でパンを買おうとして、おばちゃんにスルーされる様子を目もく撃げきしている。あれは、かわいそうになる光景だった。 「この二週間で、どんどん見えないところが多くなってきてる。藤ふじ沢さわ駅の周辺はもう全然ダメ。ネットで買い物しようにも、受け取りができないんじゃ同じだし」 「じゃあ、上がっていきますか?」  咲太はポケットから鍵かぎを取り出し、ドアを指差した。 「食べ物、恵んであげますよ」 「その言い方」  じっと麻衣が睨にらみ付つけてくる。残念ながら少しも怖こわくない。むしろ、かわいいくらいだった。 「では、ご馳ち走そうします」 「嫌いやよ。こんな時間に男の子の部屋に上がったら、何をされてもいいって言ってるようなものじゃない」 「なるほど、それが麻衣さんのオッケーサインか。覚えておこう」 「忘れなさい」  麻衣が頭にチョップを落としてきた。 「あだっ」 「バカ言ってないで、いいから買い物に付き合って」 「あ、なら少し待ってください。妹に帰ったこと伝えてくるんで」 「わかった。下で待ってる」  鍵を差し込んだ咲太に背を向けて、麻衣はエレベーターの方へと歩き出していた。  咲太の帰りを待っていたかえでの説得に十五分。その後、十五分待たせた麻衣をなだめるのにまた十五分。移動時間十分を要して、ようやく咲太は麻衣と駅の近くにあるスーパーにやってくることができた。夜の十時をとっくに回っている。  十一時まで営業している店内には、まだそれなりの客足があった。若いスーツ姿の男性客がちらほらいる。ひとり暮らしで、仕事帰りに寄っているのだろうか。  咲さく太たも日常的に利用しているスーパーだけど、この時間帯に来ることは滅めつ多たにない。だから、なんとなく新しん鮮せんな気持ちだった。  そして、それ以上に新鮮なのは、ひとりではないということ。一いつ緒しよにいるのが、あの桜さくら島じま麻ま衣いであるということだ。  食材を選びながら少し前を麻衣が歩いている。後ろからカートを押おしてついていくのは、なんだかとても楽しい。自然と顔が緩ゆるむ。 「この絵面は、完かん璧ぺきにカップルだよなぁ」 「なにか言った?」  両手ににんじんを持った麻衣が振ふり向むく。 「いえ、なにも」 「大だい丈じよう夫ぶよ。どうせ周囲の人に私は見えてないから」  どうやら、本当は聞こえていたようだ。 「これからはじめてのお泊とまりで、彼女が手料理を振ふる舞まってくれるシチュエーションだと思うんだけどなぁ」 「バカな妄もう想そうばかりしてるとバカになるわよ」  呆あきれた様子で、右手のにんじんを棚たなに戻もどしている。 「じゃあ、真面目な話」 「本当でしょうね」  まったく信用されてないのが口調でわかる。 「今、麻衣さんが握にぎっているにんじんは、麻衣さんのことが見えてない人にはどう見えているんですか? 浮ういてる?」 「見えないみたいよ」  すでに実験済みなのか、麻衣はきっぱりと言い切った。  その上で、通りかかったサラリーマンの顔の前に、にんじんをぶら下げる。サラリーマンは無反応だ。 「ほらね」 「みたいですね」 「前に、カゴに買うもの入れてレジまで持っていったけど、それもダメだったし。だいたい、洋服も一いつ緒しよに見えなくなってるわけでしょ?」  言われてみればそうだ。体だけが透とう明めいになっているのとはわけが違ちがう。 「もしかして、私が触ふれたものは見えなくなるのかしら」 「その理り屈くつなら、地球が見えなくなってるでしょ」 「スケールの大きなこと考えるわね」 「僕ぼくはデカイ男なんですよ」 「はいはい」  あっさり流されてしまった。 「でも、だったら……僕ぼくが麻ま衣いさんに触ふれたらどうなるのかな?」 「それは私と手を繫つなぎたいという遠回しのアピール?」 「いや、あくまで実験」  触れるだけでいいのなら、すでに経験している。以前、麻衣を部屋に上げた際に、胸の傷を咲さく太たは触さわられたのだ。電車の中で、「妊にん娠しんしそう」と肩かたを押おされたこともある。  でも、咲太の姿が見えなくなるなんて現象は起こっていない。たぶん、今カートに入れられたにんじんや他の食材も、咲太がレジに持っていけば普ふ通つうに買うことができると思う。  どちらかと言えば、触れている間はどうなるのかを知りたかった。 「そんな理由なら繫いであげない」  麻衣はすたすたとお肉のコーナーに足を運ぶ。 「実験というのは照てれ隠かくしで、ほんとは麻衣さんと手を繫ぎたいだけなんです」  様子を窺うかがいながらそう背中に声をかける。 「それで?」  肩かた越ごしに振ふり向むくと、麻衣が楽しそうに微ほほ笑えんだ。 「女子と手すら繫いだことのない僕のはじめてをもらってください」 「若干、気持ち悪いけど……ま、合格にしてあげる」  咲太が追いつくのを待って、麻衣が隣となりに並ぶ。その直後、右半身に人ひと肌はだのぬくもりがかぶさってきた。麻衣が腕うでを絡からめ、咲太の右腕にしがみ付いてきたのだ。  さすがに驚おどろいて、心臓が跳はね上あがった。  背の高い麻衣の顔は、すぐ真横にあって、まつ毛の一本一本を数えることもできそうなくらいに近い。 「……」  時間が経つにつれて、やわらかい胸の感かん触しよくも明確に実感した。バニー姿のときに確認済みではあったけど、線の細い体型をしている割には、出るところはきちんと出ている。  ほんのりといい香かおりもした。頭がくらくらする。 「今、エロいこと考えてるでしょ」 「麻衣さんの想像の百倍はエロいこと考えてる」  本当のことを言うと、麻衣がぱっと離はなれた。 「でも、大人の麻衣さんは、それくらい平気だよね」 「そうね。年下の男の子にエッチな妄もう想そうをされるくらい、な、なんでもない」  意地になった麻衣がさらに強く腕にしがみ付いてきた。 「うはっ」  思わず、変な声が出る。  そのせいで、近くにいたサラリーマンから訝いぶかしげな視線を向けられた。目が合う。確実に咲さく太たのことは見えているようだ。でも、桜さくら島じま麻ま衣いの存在に気づく素そ振ぶりはない。やはり、見えていないらしい。 「あのさ、麻衣さん?」 「まだ不満?」 「ごめんなさい。僕ぼくの負けです。これ以上はある事情から歩きづらくなるので許して欲しいなあ」 「人を散々挑ちよう発はつした罰ばつよ」  麻衣は面白がって離はなれてくれない。だんだんこの手のやり取りにも免めん疫えきがついてきてしまったようだ。  とは言え、麻衣の行こう為いは罰でもなんでもなくて、おいしすぎるご褒ほう美びでしかなった。 「あ、そうだ。今思い出したんだけど、僕たちケンカ中でしたよね?」 「それもそうだったわね」  す~っと笑顔をしまった麻衣は、つまらなそうな態度で咲太から離はなれた。この変わり身の早さには驚おどろかされる。本気なのか、演技なのか、全然見分けがつかない。  ちょっともったいないことをしたと思いながらも、麻衣との買い物はその後も十分楽しく続いた。  一いち抹まつの不安を残した会計だったが、咲太が持ち込んだ食材は、すべて無事にレジを通過することができた。普ふ通つうにお金を払ってレジ袋に買った野菜や肉やお菓子を詰つめ込こんでいく。  ふたつの袋は両方とも咲太が持って、スーパーを出た。  帰り道を麻衣と並んで歩く。とは言っても、どこへ帰るのか咲太は知らないのだが……。 「麻衣さんって、どこに住んでるんですか?」  藤ふじ沢さわ駅で買い物をする以上、駅から徒歩圏けん内ないなのは間ま違ちがいないだろう。 「地球」  淡たん々たんとそう言われてしまい、咲太は麻衣に誘ゆう導どうされるまま、大人しく隣となりを歩くことにした。今のところ、進路は咲太の住むマンションと同じ方角を向いている。 「麻衣さんの家、楽しみだなあ」 「入れないわよ」  きっぱりとした拒きよ否ひ。目も真しん剣けんだ。 「えー」 「子供みたいな声を出さないの。だいたい、私たちケンカしてるんでしょ?」 「あれは、麻衣さんが素直じゃないから」 「はぁ? 私がいけないって言うの?」 「演技の仕事、したいなら続ければいいのに」 「余計な口を挟はさまないで」  静かだけど凄すごみのある声。拒きよ否ひよりも強い拒きよ絶ぜつ。冷たく咲さく太たを拒こばんでいる。 「僕ぼくが何も知らないからですか?」 「そうよ。何も知らないくせに口を挟むな」 「でも、残念。知ってますよ。麻ま衣いさんが活動休止を決めた理由くらい」 「はいはい」  バカにしたように麻衣が笑う。 「中三のときに出した写真集が原因なんですよね」 「っ!?」  咲太の言葉を境に、麻衣の表情から余よ裕ゆうが消えた。 「『水着は絶対にNG』って条件だったのに、あった方が絶対に売れるからって、マネージャーだった母親が勝手に契けい約やくしちゃったとか」  それまで、雑誌のグラビアでも水着はやっていなかった。それでも十分すぎる需じゆ要ようを誇ほこっていたのだ。むしろ、肌はだを見せないことで特別な立場を確立していた。美少女という看板だけで十分だった。 「その件で、母親と大おお喧げん嘩かになって、母親が一番ショックを受ける『芸能活動の休止』ってやり方で、麻衣さんは仕返しをした」 「……」 「けど、そんなのふざけてる」 「うるさい……」 「一いつ緒しよに自分の欲しいものまで投げ捨てたんじゃ、意味ないし」 「うるさいな!」 「いや、麻衣さんの方がうるさいし。近所迷めい惑わくなんで静かに……」  言っている途と中ちゆうで、平手打ちが左の頰ほおへ飛んできた。「ぱんっ」と乾かわいた音が鳴なり響ひびく。 「私だっていっぱい悩なやんで決めたの!」 「……」 「まだ中学生だったのよ!? なのに、スタジオに入ったら水着がいきなり用意されてて、周りには大人しかいなくて……もう契約したからって言われて、嫌いやで嫌で仕方がなかったのに、仕事だからって言われたら、やるしかなくて……無理やり笑顔を作るしかなかった!」  もっと平へい凡ぼんな日々の中にいたら、「嫌だ」とわがままを通せたのかもしれない。駄だ々だをこねて断ることができたのかもしれない。だけど、彼女は桜さくら島じま麻衣で、桜島麻衣は六歳から芸能界でプロとして仕事をしてきた。大人たちの中で……。  現場に迷めい惑わくをかけることは、許されなかった。空気を読んで、利口な判断をしなければならなかった。子供なのに、大人のふりをしなければならなかった。 「結局、あの人は私を使って、お金かね儲もうけをすることしか考えてなかったのよ」  吐はき出だされた感情は刺とげ々とげしくて、濁にごった色をしていた。だからこそ、一番の理由はそれなんだと咲さく太たは気づいた。自分を商品としてしか見ていなかった母親への反発。  その気持ちがわかるとは言わない。咲太にはさっぱりわからない。わからないけど、ひとつだけはっきりしていることはある。 「だったら、なおさら芸能界に戻もどるべきだと僕ぼくは思う」 「どうしてよ」 「それだけ嫌いやな想いをしたのに、麻ま衣いさんが未だに嫌な想いをしてるから」 「えっ……」 「やりたいなら我が慢まんなんてしなければいい。やればいい。そんくらいは僕にだってわかるんだから、麻衣さんだって本当はわかってるはずだ」 「……」  かっとなった熱を冷ますように、麻衣が俯うつむく。 「……」  たっぷり十秒ほどの沈ちん黙もくをおいて、 「叩たたいてごめん」  と小さな声で、謝ってきた。  今さらのようにじわじわと痛みが頰ほおを熱くする。 「荷物で両手が塞ふさがっている相手を普ふ通つう殴なぐるかな」 「これでも、グーはやめたのよ」 「……アリガトウゴザイマス」  棒ぼう読よみで今の想いを素直に告げる。 「全然、感謝の意を感じない」 「そりゃ、平手打ち食らったの僕だし。あ~、いたい。いたいなー」 「大げさ」 「痛くて泣きそうだなぁ。美人でやさしい先せん輩ぱいに撫なでてもらわないと治らないかもなー」 「自業自得」 「え、どの辺が?」  この件に関して、咲太に非はないと思う。 「わざと私を怒おこらせるような言い方をしていたのは、どこの誰だれかしら?」  不ふ機き嫌げんな麻衣の目が、咲太を吊つるし上あげてくる。 「なんのこと?」  今さらとぼけても遅おそいが、ここで認めるわけにもいかない。 「感情的になれば、私が本音を言うと思って、誘ゆう導どうしたんでしょ?」 「滅めつ相そうもない」 「ほんといい性格してる」  麻ま衣いの手が伸びてきて咲さく太たの頰ほおに触ふれる。撫なでてくれるのかと思ったら、やんわりとつねられた。叩たたかれていない右の頰も同様に摘つままれて、左右に引っ張られる。 「いたたたっ」 「それはそうと咲太君」  すっかり自分を取とり戻もどした麻衣が、詰きつ問もんの目を向けてくる。 「私の活動休止の話、誰だれに聞いたの?」 「……」  それとなく視線を空へと逃にがした。 「目を逸そらすな」  指に力が込められる。 「いたたた」 「で、誰に聞いたの?」  さすがに黙だまってやり過ごせる雰ふん囲い気きじゃない。ごまかしも通用しないだろう。一いつ般ぱん人じんが知っている情報でないことは、麻衣自身が一番よくわかっているはずだ。なんたって、今日まで明るみに出ることはなかった情報なのだから。 「かえでの事件のとき、いじめの取材に来たアナウンサーの知り合いがいて」 「誰?」 「南なん条じよう文ふみ香かっていう……」 「ああ、あの女」 「知ってるんですか?」 「お昼のワイドショー番組で長くアシスタントしてるでしょ。私もお世話になったことある」  お世話というのはもちろんいい意味で言っているわけではない。 「それがなんで今も付き合いがあるわけ? 妹さんの件は二年も前じゃない」 「あ~、え~」 「言いなさい」 「取材のとき、彼女だけは思春期症しよう候こう群ぐんに少し興味を持ったんですよ。僕ぼくの胸の傷も見たことがあって。で、時々、そっちの取材に応じてほしいって顔を出すんです」  ちなみに、麻衣のことに関しては、「ある程度、憶おく測そくも混ざっちゃうけどいい?」と言っていた。表おもて沙ざ汰たにならないように、色々なところで圧力がかかっていたらしいのだ。 「ということは、咲太君は私の情報を得るために、何かあの女に話したでしょ」  麻ま衣いは鋭するどいところを突ついてくる。 「いえ、何も」  心臓の高鳴りを押おさえつつ、平然と咲さく太たは答えた。 「噓うそ。あの女、妙みように報道記者ぶったところがあったし、そもそもマスコミの関係者が情報をタダで渡わたすわけがない。何かの取り引きをしたはずよ」  TV業界の事情に関しては、麻衣の方が一枚も二枚も上手のようだ。これは、さすがに噓で押し通せる相手じゃない。沈ちん黙もくも許してはくれないだろう。観念して咲太は白状することにした。 「写真ですよ。胸の傷を一枚」  トイレの個室にふたりで入って撮さつ影えいしたことはさすがに黙だまっておく。甘い香こう水すいの香かおりにやられて、ちょっとエッチな気分になったことは、絶対に言わない方がいい。 「バカ」 「酷ひどいなぁ」 「ほんとバカ。なに考えてるのよ!」  すごい剣けん幕まくで感情をぶつけてくる。本気で怒おこっているのが伝わってきた。 「そりゃあ、麻衣さんのことを」 「……」 「ほんとなんだけど」  ちょっとこわくて目を見られなかった。脇わきに視線を逸そらす。 「はぁ……」  呆あきれたのか、脱だつ力りよくした麻衣の手がだらりと落ちる。ようやく咲太の頰ほおは解放された。でも、まだ突つっ張ぱった感じがする。 「傷のことで、咲太君が嫌いやな想いをすることになるのよ。妹さんに害が及ぶかもしれないのよ」  麻衣は真しん剣けんな目をしていた。 「かえでのことは伏ふせてます」 「二年前にいじめの取材をしてるなら、妹さんのことに関しても、何か気づいている可能性は高いでしょ?」 「ま、それは仕方ないというか」 「はい」  何かを要求するように、突とつ然ぜん麻衣が手を出してきた。その意図が汲くみ取とれなかったので、荷物を片手にまとめてから咲太はお手を返した。  でも、触れる前に叩はたき落おとされる。 「あの女の連れん絡らく先さきをよこしなさいと言ったのよ」 「言ってたかなぁ?」  記き憶おくを遡さかのぼっても一言もそんなことは言っていない。 「流れで察しなさいよ」 「麻ま衣いさん、女王様すぎ」 「咲さく太た君はTVなめすぎ。迂う闊かつにもほどがある。マスコミが興味を持てば、取材で囲まれるわよ? それを想像して。家にもカメラが張り付くの」  言われた通り、想像力を総動員してイメージする。不ふ祥しよう事じを起こした人間に対する世間の目の厳しさ、たかれるフラッシュ、ぶしつけな質問の数々……過去に見たことのある映像を自分に置おき換かえて繫つなぎ合あわせていく。 「……」  ごくりと咲太は喉のどを鳴らした。 「……気分悪いです」  血の気が引いていく。 「現実になったらその百倍は気分悪い」  麻衣の追おい討うちは痛つう烈れつだった。今さらのように、咲太は取り返しのつかないことをしたのかもしれないという思いに駆かられた。妙みように背筋が寒い。 「もっと、慎しん重ちように行動しなさい。いい?」  苛いら々いらしながらも、麻衣からは嫌いやな空気を感じなかった。怒おこられているのに、なんだかそこにはあたたかさが宿っている。それはたぶん麻衣が本当に心配してくれていて、叱しかってくれているからなんだろうと咲太は気づいた。 「返事は」 「はい、わかりました。気を付けます。けど、もう写真は……」 「だから、はい」  麻衣が再度手を出してくる。 「連れん絡らく先さきくらい知ってるんでしょ?」  今日もらった名めい刺しを財さい布ふから抜ぬき取とり、咲太は麻衣に渡わたした。  まず表を見て、それからすぐに裏返す。 「手書きでケータイ番号とか、やらしい」  なぜだか、咲太が責められる。 「僕は確かに年上好きだけど、おばさんに興味はないですよ」 「ふ~ん」  不ふ機き嫌げんなまま、麻衣はスマホに番号を打ち込んでいく。 「って、麻衣さん、どうする気?」 「黙だまってて」  麻ま衣いはスマホを耳に当て、するりと咲さく太たに背中を向けた。すぐに電話は繫つながったらしい。 「突とつ然ぜん、失礼します。以前、お仕事でお世話になったことのある桜さくら島じま麻衣と言います。悪戯いたずらではないので切らないでください。……ええ、はい。その桜島麻衣です。ご無ぶ沙さ汰たしています。今、お時間よろしいでしょうか?」  てきぱきと麻衣が話を進めていく。 「今日は、梓あずさ川がわ咲さく太た君の件でご相談があり、ご連れん絡らく差し上げました。彼、高校の後こう輩はいなんです。ええ、はい……」  落ち着いた口調で電話口に語りかける麻衣は、妙みように頼たのもしくて大人に見える。 「彼の胸の傷の写真、公開するのはやめていただきたいんです。できれば、専門家などに意見を求めるのも控ひかえてほしいと思っています。……はい、当然、タダでとは言いません。その代わりになるスクープを私が提供します」 「ちょ、ちょっと、麻衣さん!」  一体、麻衣は何を言うつもりだろうか。逆に、自分を売るつもりなんじゃないかと思って、咲太は慌あわてた。  肩かた越ごしに振ふり向むいた麻衣は、「し~」と子供にするように、唇くちびるに人差し指を当てる。 「ええ、承知しています。相応の情報をご用意してありますのでご安心ください」  再び、咲太に背中を向けた麻衣はさらに言葉を続けた。 「近々、私は芸能活動を再開します。その際、御社と南なん条じようさんの独占取材を確約します。……ええ、もちろん、それだけでは話題性として弱いことは承知しています。でも、これを聞けば、納得していただけると思います」  そこで一度間を空ける。それから、用意していたのであろう言葉を麻衣は口にした。 「母の事務所へは戻もどりません。復帰は別の事務所からになります」  たぶん、ここまでの話の流れを聞いて、南条文ふみ香か以上に、咲太の方が驚おどろいていたと思う。つい先日も、ついさっきも……その件でケンカをしたばかりなのだ。復帰を勧める咲太と、反発する麻衣という構図で……。なのに、麻衣は今なんと言っただろうか。復帰すると言ったのだ。これに驚かずに、何に驚けばいい。 「南条さんの常識を世間に疑われるような梓川君のネタよりも、よっぽど即効性があっていいと思いますがいかがでしょうか。よろしくご検けん討とうください」  それからしばらくは、「ええ」とか「はい」とか「わかりました」とか、文香の確認に応じている様子だった。 「では、交こう渉しようは成立ですね。今後ともよいお付き合いをさせてください」  最後まで丁てい寧ねいに応対して、麻衣は電話を切った。  すぐに咲太を振り返る。 「そういうわけだから」 「すいません」 「なんで謝るのよ」 「ありがとうございます」 「しゅんとしていれば、咲さく太た君もまあまあかわいいわね」  今回ばかりは軽口も出てこない。完全に頭が上がらない。カメラに追い回される自分を想像したときの寒さはもうどこにもない。安心感に満たされている。それをくれたのは、間ま違ちがいなく麻ま衣いなのだ。 「でも、芸能界復帰って」  しかも、事務所を移い籍せきするとか言っていた。 「咲太君の言った通りだと思ったのよ」  認めたくはないのか、口を尖とがらせている。 「ドラマや映画の仕事は好きだったし、やり甲が斐いもあって楽しかった。ずっと続けたいと思ってた。そういうやりたい気持ちに噓うそを吐つき続つづけても仕方がないってね……悪い?」 「悪い。無茶苦茶悪い」 「な、なによ、ここは許してくれる流れでしょ」 「この二週間、散々人のこと避さけまくっておいてどの口が言うかな」 「今助けてあげたじゃない」 「それはそれ、これはこれ」 「うっ……意地を張って悪かったわ。ごめんなさい。これでいい?」  少し悔くやしそうにしながらも、非を認めて麻衣が謝ってくる。 「もう一声」 「許してください。反省してます」 「上うわ目め遣づかいでしおらしさがプラスされたら完かん璧ぺきかな」 「調子に乗るな」  むぎゅっと、麻衣が鼻を摘つまんでくる。 「うわっ、なにするんですか」  いつもと違ちがったくぐもった声がもれる。それを聞いて、麻衣は「おかしい」と言って笑い出した。  このときになって、咲太は今さらのように気づいた。今日、麻衣が何をするために咲太の家の前で待っていたのか。  麻衣は、芸能界復帰を伝えるためにやってきたのだ。  咲太が文香から事情を聞くとか関係なく、麻衣は麻衣のことを自分で決めていたのだ。  それがなんだか悔しい気もしたが、咲太の気持ちは晴れやかだった。 「世界なんて勝手に回ってんだよな」 「なにか言った?」 「独り言です」  並んで再び歩き出す。その足取りは、先ほどまでより格段に軽い気がした。あとは、麻ま衣いの決心によって、思春期症しよう候こう群ぐんがなくなれば言うことはない。  三分後、 「ここよ」  と言って、麻衣が止まったのは、咲さく太たが住むマンションの前だった。 「え?」 「ああ、こっちだけど」  麻衣が指差したのは、お向かいのマンションだ。前に近いから送らなくて平気と言っていたが、まさかここまで近いとは驚おどろきだ。今日、一番驚いた。芸能界復帰宣言よりもびっくりだった。 「荷物、ありがと」  咲太の両手から麻衣がレジ袋を奪うばっていく。残念ながら本当に部屋には上がらせてもらえないらしい。 「そうだ、咲太君」 「なんですか、女王様」 「週末、付き合いなさい」  うっかり女王様とか言ったせいで、続いた麻衣の台詞が妙みようにはまってしまった。 「復帰したら、忙いそがしくて遊んでる余よ裕ゆうもないだろうし。こっちに二年も住んでるのに、私、鎌かま倉くらにも行ってないの。おかしいでしょ? だから一度くらい行きたいのよ」 「そんな簡単に仕事って取れるんですか?」  懐かい疑ぎ的てきな視線を向ける。すると麻衣は平然と、 「私、桜さくら島じま麻衣よ」  と言ってのけた。  これが傲ごう慢まんに聞こえないのがすごい。いっそ清すが々すがしいくらいだ。それでいて、現実味を帯びている。本当に、麻衣ならスケジュールがあっさり埋うまる予感がした。 「あ、でも、日曜は」 「私の誘さそいよりも大事な用事があるわけ?」 「朝からランチタイムまでバイトのシフトなんですよ、週末は」 「そんなの誰だれかに代わってもらいなさいよ……とは言えないわね」  全力で口に出しているのはどこの誰だろうか。 「なんか、私よりバイトを優先された気がして無性に腹立たしい」 「二時までなんで、そのあとなら」 「ま、それでいいわ」  咲さく太たの足を踏ふんでくるあたり、ちっとも納得はしてないようだが、表面上はわかってくれたらしい。大人なんだか、子供なんだかわかったものではない。その中間というよりも、ふたつがごちゃ混ぜになっているのが、桜さくら島じま麻ま衣いなんだと咲太は思った。 「にやにやしないの」 「麻衣さんからデートに誘さそわれたら、そりゃ、にやつくと思うな」 「あ、デートじゃないから」  さらっと否定される。 「えー」 「そんなにデートがいいの?」 「もちろん」  力いっぱい頷うなずく。 「じゃあ、そういうことにしてあげる」 「よし」  ナチュラルにガッツポーズを決めていた。 「そんなにうれしいんだ」 「そりゃもう」 「じゃあ、二時五分に江えノ電でん藤ふじ沢さわ駅の改札前で」 「バイトが二時までだって、僕ぼく言ったよね?」 「だから、五分にしてる」 「お店の混雑状じよう況きようによっては、ぴったりに上がれるかわからないので余よ裕ゆうをください。お願いします」 「じゃあ、二時半。一秒でも遅おくれたら帰るから」 「わかりました」  こうして、咲太は意外な形で、人生初のデートの約束を取り付けたのだった。  この日、梓あずさ川がわ家けの風ふ呂ろ場ばからは、 「いやっほ~!」  という、浮うかれた雄お叫たけびが聞こえたという……。     1  天気は快晴。待ちに待った日曜日は、絶好のデート日和となった。  バイトの方も、午後二時ぴったりに上がることができ、逆に待ち合わせまで少し時間があったので、咲さく太たは一いつ旦たん家に帰ることにした。  自転車を飛ばすこと約三分。 「おかえりなさい」  と出迎えてくれたかえでの頭にぽんと手を乗せてから、お風ふ呂ろ場ばへ直行する。  自転車のこぎ過ぎで汗あせだくになった体をシャワーで流し、念のために新しいパンツに穿はき替かえる。その際、かえでに訝いぶかしげな視線を送られたが、 「男はあらゆる事態に備えておくべきなんだ」  と、一いつ般ぱん論ろん風ふうに言ってごまかした。 「じゃ、行ってくるな、かえで」 「あ、はい、いってらっしゃい」  なすのを胸に抱だいたかえでに見送られ、二時二十分に再び家を出る。今度は徒歩で藤ふじ沢さわ駅へと向かった。  なんだか体が軽い。普ふ通つうに歩いているのに、スキップでもしているかのような軽やかさだ。翼つばさでも生えた気分。  見慣れた住宅街の景色が、今日は違ちがって見える。割れたアスファルトの隙すき間まから顔を出した草花が自然と目に留まった。電線に止まったすずめの鳴き声がよく聞こえた。  そして、それらが愛おしく思えてくる。やさしい気持ちになれた。  そんな浮うかれに浮かれた咲太の耳に、小さな女の子の泣き声が聞こえてきたのは、家を出て三、四分後のことだった。  進行方向の前方。公園の入り口に、わんわんと泣きじゃくる女の子がいる。 「どうした?」  近づいて声をかけると、女の子は一度咲太を見て泣きやんだ。でも、またすぐに、 「うわー、ママじゃなーい!」  と言って泣き出してしまう。 「迷子か?」 「ママ、いないー」 「迷子だな」 「ママ、まいごー」 「そういう解かい釈しやくもあるな」  なかなか将来が楽しみな女の子だ。 「ほら、もう泣くな」  女の子の前にしゃがみ込むと、咲さく太たは小さな頭にぽんと手を置いた。 「お兄ちゃんがママを捜さがしてやるから」 「ほんとう?」 「ああ」  しっかり頷うなずいてから笑いかける。これで女の子もにっこりと笑顔になるかと思いきや、どういうわけか不思議そうな顔で首を傾かしげていた。 「よし、じゃあ行くか」  気を取り直して、咲太が女の子の手を握にぎった瞬しゆん間かんだった。 「くたばれ、ロリコン変質者!」  そんな威い勢せいのいい掛かけ声ごえが背中から聞こえてきた。  一体、何事だろうか。そう思って振ふり向むこうとしたのだが、それは叶かなわなかった。相手の顔を確認する前に、咲太のお尻しりに鋭するどい衝しよう撃げきが走ったのだ。  まるで、硬かたいブーツの先せん端たんで、尾び骶てい骨こつを蹴けり上あげられたかような激痛。いや、実際、その通りなのだろうが……。 「うおおおっ!」  雄お叫たけびを上げながらアスファルトの上をのた打ち回る。その際、視界の隅すみに映ったのは、咲太とそう年ねん齢れいの変わらない女子。恐おそらく、高校生。すなわち女子高生。  ふんわりしたショートボブの髪かみ型がたに、短いスカート。当然、ナマ足。控ひかえめながらメイクも決めたイマドキの女子高生だった。 「さあ、早く逃にげて!」  真しん剣けんな表情で女子高生が女の子を促うながす。突とつ然ぜんのことに女の子は、「え? ええ?」と戸と惑まどうだけだった。 「だから、早く!」  何が「だから」なのかはわからないが、女子高生は女の子の手を摑つかむと、どこかへと連れていこうとする。 「ロリコン変質者が立ち上がる前に!」 「誰だれがロリコン変質者だ」  お尻を押おさえながらよろよろと咲太は立ち上がる。痛すぎて下半身に力が入らない。内うち股またになった足はぷるぷると震ふるえている。生まれたての小こ鹿じかのようだ。 「お兄ちゃん、ママ、捜してくれるんだよ」 「へ?」  素すっ頓とん狂きような声を女子高生が上げる。 「ロリコン変質者じゃないの?」 「僕ぼくは年上好きだ」 「やっぱり、変質者!?」  そう言いながらも、女子高生の表情には動どう揺ようが浮うかんでいる。よく見ると、かわいい顔をした女子高生だった。まだ少し幼さを残した丸い輪りん郭かく。ぱっちりと開いた大きな目。軽めのメイクはやわらかい印象で好感が持てる。やりすぎな女子を学校内で見かけるので、メイクをするならこの子くらいを基準にすればいいと咲さく太たは思った。 「僕は迷子になったその子の母親を一いつ緒しよに捜さがそうとしてただけだ」 「いやいや、迷子はこの子でしょ?」 「ママ、まいごー」  咲太の発言を、女の子が肯こう定ていしてくれた。しかも、女子高生の側を離はなれ、咲太のもとまで来ると、袖そで口ぐちをきゅっと握にぎってくる。形勢は一気に逆転。  さすがに、女子高生も自分の勘かん違ちがいを認めたらしく、苦笑いが浮かんでいる。 「あー、お尻しりが痛い」 「ご、ごめんねえ。あははっ」 「ふたつにぱっくり割れたかも」 「え? それは大変! って、もとからふたつじゃん!」 「あ~、痛い、痛いなあ」 「わ、わかったぁ。わかりましたぁ」  投げやりな感じで女子高生が大きな声を出した……かと思えば、後ろを向いて電信柱に手をつく。 「さあ!」  気前の良さそうな掛かけ声ごえと共に、ミニスカートに包まれたお尻を咲太に突つき出だしてきた。 「いや、『さあ』じゃなくて」  蹴けれということなのだろうが、天下の往来で女子高生の尻を蹴る趣味はない。 「いいから、早くして。あたし、友達と約束あるの!」  約束なら咲太にもある。それも重要な約束だ。今、こうしている間にもどんどんとその時間は迫せまっている。というか、迷子の問題もあるので、このままでは遅ち刻こくは確実。それゆえに余計なことに時間を使っている場合ではない。  こうなると、さっさと蹴ってしまった方が早そうだ。 「じゃあ、はい」  ぽんっと軽く女子高生の尻に蹴りを入れた。これで納得するだろう。そう思っていたのだが、 「もっと強く!」  と、女子高生は背中越しに訴うつたえかけてきた。 「まじで?」  先ほどよりも強めに蹴ける。ぱんっといい音が鳴った。 「もっとぉ!」  それでもまた、足りないらしい。 「よし、どうなっても知らんぞ!」  ここは覚かく悟ごを決めよう。  女の子のお願いを聞き届けてあげるのが、いい男というものだ。  咲さく太たは半身を引いて構えると、軸じく足あしにぐっと力を溜ためた。標ひよう的てきの丸いお尻しりを確認。狙ねらいを定めて、しなりのある本気のミドルキックをお見み舞まいした。  どすんっという生々しい低音が響ひびく。  一いつ瞬しゆん遅おくれて、 「い、い……いたかぁー!」  と、博はか多た弁べんの悲鳴が上がった。 「う~」  呻うめき声ごえをもらしながら女子高生がしゃがみ込む。その両手は大切そうにお尻を押おさえていた。痛すぎて続く言葉が出てこないようだ。金魚のように口をぱくぱくとさせている。 「お、お尻がふたつに割れた……」  やっと絞しぼり出だしたのはそんな声。 「安心しろ。もとからふたつだ」 「あ~、ちょっと君たち」  後ろから声をかけられ、女子高生と同時に振ふり向むく。制服を着た警察官のおじさんが立っていた。その表情には困こん惑わくが見て取れる。 「休日の真昼間から公道でド変態プレイをお楽しみのところ申し訳ないね」 「いや、ド変態はこいつだけですって」  事実なので女子高生を指差す。 「ち、違ちがう! 違うから! これにはわけがあるんだって!」  妙みような誤解をされて、女子高生も必死だ。 「とりあえず、そのわけとやらは交番で詳くわしく聞くから」  ぐっと腕うでを組まれてしまい、身動きが取れない。さすが警察官のおじさん。おじさんといえども、しっかりと鍛きたえているのかびくともしない。この街の治安は安心だ。 「僕ぼく、このあと大事な用事があるから離はなして!」  交番など冗じよう談だんではなかった。五分、十分なら奇き跡せき的てきに可能性があるが、それ以上の時間を麻ま衣いが待っていてくれるはずはない。なんたって、彼女は『桜さくら島じま麻衣』なのだから。 「はいはい、暴れない。大人しくね。迷子のお嬢じようちゃんもおいで。交番でお母さんが待ってるよ」 「ママ? わーい!」  警察官のおじさんに引ひき摺ずられながら、迷子問題が解決したことにだけはほっと胸を撫なで下おろす咲さく太ただった。けれど、それすらも、 「最近、若者の間じゃ、痛いのが流行ってるのかい?」  という、おじさんの質問が台無しにしたのだった。  咲太たちが警察官のおじさんから解放されたのは、交番に到とう着ちやくして一時間半後のことだった。交番を出るときに見た時計の針は、恐おそろしいことに四時を指し示していた。今すぐ誰だれかにタイムマシンを用意してもらいたい。 「はー、もー、最悪~」  疲つかれた顔で隣となりを歩く女子高生が不満を口にする。 「それはこっちの台詞だ、バカ」 「バカってなによ。元はと言えば、あなたが紛まぎらわしいことをしてたからいけないんじゃん」 「誤解したお前の方がよっぽど悪いだろ」 「言い訳とか、かっこ悪い」 「言い訳じゃない。事実だ。だいたい、おじさんの話が長引いたのは古こ賀がのせいだからな」  びくりと女子高生の肩かたが動く。 「……ちょっと、なんであたしの名前知ってるの?」 「古こ賀が朋とも絵え。かわいい名前してるんだな」 「フルネームも!?」  交番で警察官のおじさんに自分で名乗ったことを覚えていないのだろうか。通っている学校も把は握あく済ずみ。なんと咲さく太たと同じ峰みねヶが原はら高校の生徒だった。ひとつ下の一年生。一応、学校の後こう輩はいということになる。 「僕ぼくはお前のことを何でも知ってる」 「はあ、バカじゃない?」 「出身は福岡だろ」 「どげん、知っとーとぉ!?」 「……」 「あっ」  慌あわてて女子高生こと古賀朋絵が口を両手で押おさえる。 「さっきも『いたかー』って叫さけんでたぞ」 「そ、そんなの知らないし」  そっぽを向いてとぼけている。よくわからないが、知られたくない情報だったようだ。今さらごまかしたところで遅おそいわけだが。 「まあ、話を戻もどすと古賀が悪いってことだ」 「名前、教えて。そっちだけ知ってるのずるい」 「佐さ藤とう一いち郎ろうだ」  真面目に教える義理もないので、わかりやすい噓うそを吐つく。さすがに誰だれだって偽ぎ名めいだと気づくと思ったのだが、 「じゃあ、佐藤。あたしのどこが悪いって言うの?」  と、朋絵はあっさり受け入れた。どうやら、人を疑うということを知らない、純じゆん粋すいでいい子のようだ。今さら偽名だと言うのも面めん倒どうだったので、咲太は黙だまっておくことにした。 「わからないなら教えてやる。開始三十分ほどで警察官のおじさんには誤解だってことを理解してもらえたのに、古賀がスマホばかり気にして、いじって、ちゃんと話を聞いていなかったからだ」  事実、残りの一時間は人が話をしているときに『ケータイ』ばかり気にするなという内容のありがたいお説教だった。ケータイもスマホも持っていない咲太には、本当にどうでもいい内容だったのだが……。 「そうだけど……そんな理路整然と言わなくてもいいじゃん」  口を尖とがらせてふてくされたような態度を取る。 「少しは反省したか?」 「だって、メッセージ来てたし、しょうがないし」 「どの辺がしょうがないんだよ」 「返事、早くしないと友達じゃなくなっちゃう」  しゅんとして、朋とも絵えが少し俯うつむく。 「あ、それで必死に返事打ってたのか」 「じゃなかったら、怒おこられてるときにまでしないよぉ」  朋絵は頰ほおを膨ふくらませて上うわ目め遣づかいで睨にらんでくる。 「へえ~」 「なにその反応。感じ悪い」 「べつに~」 「どうせ、そんなんで友達じゃなくなるなら、そんなのは本当の友達じゃないとか思ってるんでしょ」  前に誰だれかに言われたことでもあるのだろうか。なぜか朋絵は声色を変えて言ってきた。 「お前がそう思ってるんじゃないの」 「う、うるさいな」  咲さく太たは朋絵の頭に手を置くと、くしゃくしゃにしてやった。 「わっ、バカっ、セット大変なのに」  咲太の手を払はらいのけ、朋絵が慌あわてて乱れた髪かみを両手で直している。 「ま、がんばれよ。女子高生」 「なに? バカにしてんの?」 「その馬鹿げたルールの中で、お前、必死に生きてんだろ? なら、バカにはしない。バカだとは思うけど」  メールにしろ、メッセージにしろ、誰が望んで作ったルールなのかもよくわからない。誰のためのルールなのかも、よくわからない。最初は自分たちが「いい感じ」でいるために用意した決め事だったはずなのに、気が付いたら、自分たちを苦しめる縛いましめになっている場合もあるそんなルール。  でも、一度そのルールでやると決まってしまった以上は、仕方がない。ルールを守れなければ、みんなの輪から除じよ外がいされる。簡単に仲間はずれにされる。しかも、一度輪から外れたら、元の場所には戻もどりようがない。そんなことは咲太だってよく知っている。かえでが散々それで苦しんだからよく知っている。  消しよう耗もうするだけ。それでも、そんなルールで自分たちを縛しばって、繫つながって、居場所を作っておかないと安心できないのだ。一通一通のメールや、ひとつひとつのメッセージは「大だい丈じよう夫ぶだよね?」、「大丈夫だよ」とお互たがいに確認し合うためのもの。自分で自分を肯こう定ていするのは難しいから誰だれかに肯こう定ていしてもらう。そして、それをみんなで共有する。同調する。そうやって安心できる居場所を作っている。  中学も、高校も……学校が社会のすべてで、世界そのものなんだから仕方がない。みんな、必死だから仕方がない。  そういう世の中の仕組みが、高校入学後にバイトをはじめ、大学生や社会人のスタッフと接するようになって、咲さく太たは少しだけわかった気がした。別の場所から学校という空間を眺ながめることで、わかったような気がした。求めていたのは居場所だったんだと……。 「結局、バカにしてんじゃん」 「古こ賀がはいいやつっぽいから、ま、いいんじゃないか」 「なにそれ」 「変質者から小さな女の子を助けようとしたガッツは尊敬に値する。危ないから今後は誰かを呼んだ方がいいけどな。相手が本物の変質者だったら、お前も襲おそわれてんぞ。かわいいんだし」 「か、かわいいとか言うな!」  真っ赤になって朋とも絵えは照れている。案外、言われ慣れてないのかもしれない。 「ま、その正義の心を忘れずに、これからもがんばってくれ」 「あ、うん。ありがと」  意外なほど素直に朋絵はお礼を言ってきた。根っこは本当にいいやつなのだろう。眩まぶしいくらいの純じゆん粋すいさだ。  スマホの着信音が鳴る。咲太は持っていないから、もちろん朋絵のだ。 「あ、やばっ! 約束あるんだった。じゃあね!」  ばたばたと朋絵が走り去っていく。短いスカートで走るものだから、ちらちらとパンツが見えていたけど、大声で指し摘てきすると逆に注目を集めてしまいそうだったので、咲太は黙だまって見守ることにした。 「白か」  すっかり朋絵が見えなくなったところで、咲太は帰ろうと思って歩き出した。  三歩ほど進んで足を止める。  何か大事なことを忘れていないだろうか。 「……あ」  脳裏を過よぎったのは麻ま衣いの顔。当然、やさしく微ほほ笑えんでくれていたりはしない。かわいく拗すねていたりもしない。前に一度だけ本気で怒おこらせたときの表情が思おもい浮うかぶ。 「やべっ」  足をもつれさせながら、咲太は猛もうダッシュで待ち合わせの場所へと急いだ。     2  咲さく太たが走り込んできたのは、毎日学校へ行くために使っている江えノ電でん藤ふじ沢さわ駅。その改札口の前だった。  麻ま衣いが指定した待ち合わせ場所。  切れた息を整えながら、右を見て、左を見る。横よこ幅はば六、七メートルしかない改札口を確認するのに手間はかからなかった。 「……」  残念ながら麻衣の姿はない。 「ま、そりゃそうだよな」  あの桜さくら島じま麻衣が、一時間半も待っているはずがない。 「うわー、やっちまった……」  押おし寄よせる後こう悔かい。けれど、あそこで迷子の女の子を前にして、素通りすることなどできなかったし、よもや、その直後に正義の女子高生に絡からまれるとは思いもしなかったのだから、こればかりはどうしようもない。  ケータイもスマホも持っていない自分を、今日はさすがに恨うらんでしまう。あれば、一本連れん絡らくを入れることはできた。まあ、事情を話したところで、「ふ~ん、私とのデートよりも大事な用事なんだ」とか真顔で言われて、結局、今日のデートはなくなっていたのだろうが……。  こうなると問題はどうやって許してもらうかだ。恐おそらく、麻衣は咲太が来ないことに散々腹を立てた上で、帰るなり、ひとりでどこかへ行くなりしてしまったのだろう。その怒いかりがそう簡単に収まるとは思えない。  ガックリと落ち込んだ咲太の背後から、足音がひとつ近づいてきた。なんとなく知っている気がする足音。ただし、そのリズムからは激しい苛いら立だちを感じる。 「私を一時間三十八分も待たせるなんていい身分ね」 「……」  信じられない気持ちで振ふり返かえる。そこには私服姿の麻衣が立っていた。 「なによ、ハトが豆まめ鉄でつ砲ぽうを食ったような顔で」 「だって、麻衣さんは遅ち刻こくしてきた男を、健気に一時間三十八分も待っているような可愛げのある女じゃない! さては偽にせ物ものだな!」  す~っと麻衣の目が細くなる。不思議と周囲の温度も二度ほど下がった気がした。 「咲太が私をどういう目で見ているのかよくわかった」  主にエロい目で見ていることがばれたのだろうか。 「『君』が抜ぬけてますよ」 「咲さく太たなんて咲太で十分」  麻ま衣いは罰ばつのつもりで言っているのだろうが、はっきり言ってご褒ほう美びにしか聞こえない。それを伝えると『咲太君』に戻もどってしまいそうなので、咲太は黙だまっておくことにした。 「にやにやして、なに?」 「なんでもないです」  頰ほおが緩ゆるむのを我が慢まんしながら、改めて麻衣を見た。はじめて見る私服姿。長なが袖そでのブラウスの上に、ニット生地のかわいいフードベストを羽は織おっている。スカートは膝ひざ丈たけ。裾すその部分が少し外に広がった大人っぽいデザイン。加えて、膝下まであるブーツ。上品で、エレガントで、だけど、決めすぎてもいない絶ぜつ妙みようなバランスの良さ。大人っぽい麻衣にものすごく似合っている。 「……」  ただし、ナマの部分がない。かすかに膝のあたりが見えるだけ。 「はあ……」  思わず、ため息がもれた。 「その失礼な反応はなに?」 「麻衣さん、気は確か?」 「な、なにがよ」  警けい戒かいしたように麻衣が身を引く。 「デートと言ったら、ミニスカ、ナマ足!」 「殴なぐるわよ」  ぐっと麻衣が拳こぶしを握にぎる。 「はあ……」 「そんなに落ち込むこと?」 「楽しみにしてたのになぁ」 「遅ち刻こくしておいて図々しいわね」 「麻衣さん、制服のときいつも黒タイツだし」 「な、なによ、これだって色々考えて……」  視線を逸そらし、ぼそっと何か言っている。 「ま、すげえかわいいんですけど」 「……」  ちらりと、横目で麻衣がおかわりを要求してくれる。 「麻衣さん、めちゃくちゃかわいいです」 「素直でよろしい」 「胸がドキドキします。持って帰りたいです。部屋に飾かざっておきたい」 「それ以上は、気持ち悪いから言わなくていいわよ」 「じゃあ、行きますかー」  それとなく流れで出発しようとする。 「待ちなさい。まだ話が終わってない」 「なにかありましたっけ?」  できれば流れてほしい話題なのですっとぼけてみる。 「下手な芝しば居いはいいから」 「麻ま衣いさんの前で芝居なんて恐おそれ多おおい」 「遅ち刻こくの言い訳をして、誠心誠意、私に許しを請こいなさい」  なぜか麻衣は楽しそうだ。表情も生き生きとしている。 「納得できなかったら、私、帰るから」  もしかして、咲さく太たをいじめるために、麻衣は一時間三十八分も待っていたのだろうか。そんな気がしてきた。 「ここに来る途と中ちゆう、住宅街の一角で迷子の子供に遭そう遇ぐうして」 「帰る」 「噓うそみたいだけど、本当なんですって!」 「バイト先から来たのに、どうして住宅街を通るのよ」  麻衣は鋭するどいところを突ついてくる。 「一度、家に帰ったから」 「なんで?」 「時間あったし、いざというときのために、シャワーを浴びて、パンツを穿はき替かえるために」 「……キモ」  麻衣は素で引いている。 「ま、それは年下のかわいそうな男の子の空回りだと思って、仕方なく納得してあげる」 「ありがとうございます」 「ただし、今日は半径三十メートル以内に入らないで」  それはもうデートとは呼ばない。傍はたから見れば咲太はストーカーだ。 「ほら、作り話を続けなさい」 「迷子の子供と交番に行ったのは本当ですって」 「子供って女の子?」 「はい」 「私を待たせておいて、他の女と会ってたなんていい度胸ね」 「四歳児もダメ!?」 「ダメよ」  さらっと拒きよ否ひされた。  こうなるとバカ正直に全部話すのは危険だ。古こ賀が朋とも絵えというかわいい女子高生……いや、実はかなりかわいい女子高生と一いつ緒しよだったことを言った日には、どんな罵ば声せいを浴びせられるかわかったものではない。 「でも、交番ならすぐそこでしょ?」  麻ま衣いが駅の少し先を指差す。 「関わった以上は、ご両親が見つかるまで側にいようかと。女の子も泣いてたし」 「ふ~ん」  疑いの眼差しが突つき刺ささる。 「私、噓うそは嫌きらい」 「奇き遇ぐうだなあ。僕ぼくもです」 「噓だったら、鼻でポッキー食べてもらう」 「一本?」 「ひと箱」  なまじっかギリギリでやれそうな範はん疇ちゆうの拷ごう問もんなだけに、色々状じよう況きようが想像できてかなり嫌いやだ。 「食べ物を粗そ末まつにするのはよくないと思います」 「食べるんだから問題ないわよ」 「……」 「……」  顔を近づけて、麻衣がじ~っと見つめてきた。白状しなさいという圧力だ。吐と息いきが頰ほおに触ふれてくすぐったい。いい香かおりがする。 「強情ね」 「……」  今さら本当のことなど絶対に言えない。鼻でポッキーは食べたくないから。 「ま、いいわ。許さないけど、デートはしてあげる」  これは喜んでいいのだろうか。 「ありがとうございます」  咲さく太たがほっと胸を撫なで下おろした瞬しゆん間かんだった。 「あ、さっきのロリコン」  と、聞き覚えのある声がしたのは……。  JRや小お田だ急きゆうの駅へと繫つながる連れん絡らく通路の方を見れば、つい先ほどまで一緒にいた古賀朋絵の姿があった。一緒にいる三人の女子は、「約束がある」と言っていた友達なのだろう。華はなやかな雰ふん囲い気きのある仲の良さそうな女子四人組。クラスの中心グループといった感じ。 「そういうお前は博はか多たの女」  咲太が反応すると、慌あわてた様子で朋絵が咲太に詰つめ寄よってくる。咲太の口を両手で塞ふさぐようにして、 「そ、それ言わないで!」  と、小声で凄すごんできた。 「博はか多たの女?」  友達のひとりが首を捻ひねる。 「あ、ほら、福岡のお土産知らない? バームクーヘンに小豆羊かんが入ってるやつ。ほんとは『おんな』じゃなくて『ひと』って読むんだけどね」 「あ、食べたことあるぅ。あれ、おいしいよね」 「ってか、朋とも絵え!」  別の友達が、ぐっと朋絵の腕うでを引いた。咲さく太たと距きよ離りが離はなれる。 「な、なに?」 「病院送りの先せん輩ぱい」  耳打ちをしていても、はっきりとそう聞こえた。言われた朋絵は、「え? 佐さ藤とう一いち郎ろうじゃ」とか呟つぶやいている。 「はあ? 朋絵なに言ってんの……てか、それに、あれ」  今度は四人揃そろってちらりと麻ま衣いに視線を送る。彼女たちには見えているようだ。 「ほら、行こ」  友達に引っ張られ、朋絵は足早に改札を通とおり抜ぬけていく。  それを見届けながら、咲太は大きな失敗を犯したことに気づいていた。思わず、朋絵の声に言葉を返してしまったが、この場は知らんぷりをした方がよかった。その方が絶対によかったのだ。  ちらっと麻衣を見る。完かん璧ぺきな無表情がそこにはあった。 「ねえ、咲太」 「誤解です」 「朋絵ちゃんって言うんだ」 「みたいですねー」 「心配しないで、帰ったりしないから」  麻衣が腕を絡からめてきた。 「まずはポッキーを買いにいかないと」 「細いやつでいい?」 「だ~め」  さすがに今はその悪戯いたずらっぽい口調を楽しんでいる余よ裕ゆうはなかった。絡められた腕の感かん触しよくを堪たん能のうしている余裕もなかった。 「そこをなんとか!」 「ダメよ、ロリコン」  こうして……麻ま衣いとの初デートは、駅前のコンビニに向かうところからはじまったのだった。     3  ぽきっとポッキーの折れる音が隣となりから聞こえてくる。  江えノ電でんの車内。海側を向いた座席に、咲さく太たは麻衣と並んで座っていた。  またぽきっと音がする。コンビニで買ったポッキーを麻衣が一本ずつ口に運んでいるのだ。小さく開く唇くちびるがかわいらしく咲太を誘ゆう惑わくしてくる。もちろん、麻衣にそんな気はないのだろうが、かじる前のわずかな時間、ポッキーの先せん端たんを少しだけ甘あま嚙がみする仕草に思わず見み惚とれてしまう。  ただ、純じゆん粋すいにその光景を堪たん能のうできない。いつ、麻衣がポッキーを鼻に突つっ込こんでくるかわからないので、気が気ではなかった。  そして、その時は、思いのほか早くやってきた。  麻衣がポッキーを差し出して、 「あげる」  と言ってきた。 「オナカ、イッパイデス」 「太るといけないから残りは食べなさい」 「どこから?」 「普ふ通つうに食べていいわよ」  ため息交じりに麻衣が横目を向けてくる。 「いただきます」  箱ごとポッキーを受け取った。 「まさか、私が本気で鼻から食べさせると思ったの?」 「完全に本気の目だったし」 「あんなの演技」 「さすが」 「ま、一本くらいは試してみようと思ってたけど」 「うわー、鬼おにがいる」 「全然反省してないようだから、やる?」 「すいません。噓うそです。やさしくて美人な麻衣様、許してください」 「なんか、誠意を感じないのよね」  退たい屈くつそうに麻衣が窓の外に視線を向ける。とは言え、まだ藤ふじ沢さわ駅を出て三駅。海が見えたりするわけではない。そろそろ、線路は民家と民家の間をすり抜ぬけていく区間。  夕暮れに向かう時間帯のせいか、車内はあまり混雑していない。席もまばらに空いている。近くにいる乗客の反応をそれとなく確認したが、麻ま衣いに気づいている人はいなかった……恐おそらく、見えていないのだと思う。 「ねえ」 「土下座でもして謝れと?」 「違ちがう。咲さく太たはどうして私に構うの? 罰ばつとして白状しなさい」 「急になんですか?」 「普ふ通つうだったら、私みたいに面めん倒どうな女には関わらない」 「自覚あったんだ」 「周囲の反応を見てれば、誰だれだって気づくわよ」  クラスからも学校からも、麻衣は浮ういた存在。誰も関わろうとしない空気のような存在だ。 「そんな風に捻ひねくれてるから友達できないんですよ、麻衣さんは」 「捻くれてるのはお互たがい様さま」  麻衣の皮肉は聞かなかったことにする。言われなくても自覚していることだ。事あるごとに、佑ゆう真まや理り央おから面と向かって言われていることでもある。 「咲太の場合、その上、妙みように図太いし」 「そうかな?」 「物もの怖おじしないで私に話しかけてきたのなんて、咲太くらいのものよ」 「確かに、麻衣さんの威い圧あつ感かんはやばいと思う。友達できないと思う」  美人というだけで声をかけづらいのに、国民的知名度の芸能人という肩かた書がきもあるのだ。 「うるさいわね」 「麻衣さん、学校楽しいですか?」 「それ、友達もいないのにって意味なら、小学生の頃ころからずっとこうだったから、今さら別になんとも思わないわよ。学校を楽しいとも思わないけど」  それは強がりでもなく、ごまかしでもなく、紛まぎれもない麻衣の本音に聞こえた。学校に馴な染じめていないことに何も感じていない。周囲と自分が違ちがうことに違い和わ感かんを覚えてもいない。諦あきらめをはるか昔に通り越して、無になっているんだと咲太は感じた。 「てか、話を逸そらさないの」  横から鋭するどい視線が注がれる。 「先に質問したのは私で、咲太はまだ答えてないわよ」 「なんでしたっけ?」 「女子アナに自分が不利になる情報を渡わたしてまで、私にお節せつ介かいを焼くのはどうして? そうまでするには、相応の理由が必要でしょ」  先ほどよりも、麻ま衣いは厳しく切り込んできた。 「僕ぼくは困っている人を放っておけない性た質ちなんですよ」 「私は真面目に聞いてるの」 「ひどっ」 「咲さく太たはお人好しだけど、天然のお人好しじゃない」 「そうかな?」 「誰だれにでもやさしいわけじゃない。前に七しち里りヶが浜はまの駅で私の写真を撮とろうとしていた大学生のカップルには結構酷ひどいこと言ってたし」 「あれは、僕でなくても言うと思う」 「言い方にやさしさがなかったって言ってんの。やんわり注意すればいいじゃない」 「むかついてるのに?」 「やろうと思えばできるでしょ? それくらい冷静じゃなきゃ、逆にあんな風に相手を追おい詰つめる言い方はできない」 「聞けば聞くほど、僕、性格悪いな……」 「いいと思ってたの?」  わざとらしく麻衣が驚おどろいた表情を向けてきた。 「ここに、もっと性格悪い人がいる」 「そういうのいいから、早く理由を答えなさい」  話題を逸そらすことを麻衣は許してくれなかった。いつもそうだ。 「なら、真面目に言うので、真面目に聞いてください」 「どうぞ」 「美人の先せん輩ぱいとお近づきになれるチャンスだから張り切ってるんです」 「誰が本音を赤せき裸ら々らに語れと言ったのよ」 「真面目にって言ったの麻衣さんだよね?」 「建前を答えなさいよ」  常識的に考えて、本音を聞きたがるものではないだろうか。麻衣の価値観はいまいちよくわからない。 「困ってるのに、誰にも頼たよれないのはしんどいから」  咲太は半分投げやりな口調で答えた。 「……」  今度は、何も言ってこない。合格ということだろうか。 「かえでが思春期症しよう候こう群ぐんになったとき、誰も目の前で起きていることを信じてくれなくて……」  ポッキーを一本摘つまんで口に運ぶ。食べながらしゃべるとマナーにうるさい麻衣に怒おこられそうだったので、飲み込んでから話を続けた。 「誰だれもまともに話を聞いてくれないし、みんな離はなれていったんですよ。本当のことを言っているのに、完全に噓うそつき呼ばわりされて」  それも、仕方のないことだとは思う。そう、仕方がないのだ。咲さく太ただって当事者が妹のかえでじゃなければ、信じようとはしなかったはずだ。目を背けて、耳を閉ざして……見なかったことにして、聞かなかったことにしたはずだ。  その方が楽に生きられる。そんなことは誰もが知っている。 「ひとつ聞いてもいい?」  少し躊躇ためらいがちに、麻衣が言葉をもらした。  頷うなずいて麻衣を促うながす。何を聞かれるのか、だいたい想像はできていた。 「ご両親は?」  慎しん重ちように麻衣が口を開いた。自身が母親との折り合いが悪いから、踏ふみ込こむのに余計な葛かつ藤とうが生じたのだと思う。そういう風に、自分のことを相手に置おき換かえられるところが、咲太はいいなあと感じていた。性格はだいぶ女王様だけど、民の気持ちも理解してくれている。 「今は別々に暮らしてます」 「それはわかってる。家に上がらせてもらったときに、そう思ったし」  確かに部屋を見れば、説明は不要だろう。大人のにおいがするものがない。玄げん関かんには咲太の靴くつしかないし、咲太個人の部屋に入っても廊ろう下かと雰ふん囲い気きが変わらない。普ふ通つう、家族でもテリトリー内の空気は違ちがうものだ。 「私が聞きたいのは……」 「わかってます」  もちろん、最初から麻衣の質問の意図はわかっていた。かえでの事件に対して、両親がどう反応したのかを聞いているのだ。  三本まとめてポッキーを口に入れた。これで箱は空っぽだ。潰つぶしてポケットの中に押おし込こんでおく。 「母さんは、まあ、受け止めようとして、受け止めきれなくて、おかしくなって……今もまだ入院してます。娘がいじめられてるってだけでも気に病んでたのに、わけのわからない思春期症しよう候こう群ぐんまで降りかかってきたんだから無理もないっていうか。父さんはその付つき添そいをしてます」  このことをどう納得すればいいのか、咲太はまだよくわかっていない。自分がどうこうする前に、周りが先に変わってしまって、気づいたらこうなっていたのだから。  結果だけが残った。  何もできなかったし、何もできることなんてなかった。 「かえでは母さんに拒きよ絶ぜつされたのがショックで、しかも、その原因が自分にあると思って余計悩なやんで……僕ぼく以外にはなかなか懐なつかないお兄ちゃんっ子になりました」 「いくつなんだっけ?」 「僕のふたつ下。中三です。あれ以来、極度の家好きになったんで、学校には行ってませんけどね」  正しくは家から出られないのだが……。靴くつを履はいて玄げん関かんに立つと、足が一歩も外へ動かなくなる。小さな子供のように「いやいや」をして泣き出してしまう。  月に一度のペースで、カウンセラーの先生が診みに来てくれているのだが、今のところ改善する気配はない。 「お母さんのこと、恨うらんでない?」 「そりゃ、恨みましたよ」  さらっと咲さく太たは本音で答えた。 「親なんだから助けてくれて当たり前だろって思ったし、僕やかえでのことを信じてくれよって思いました」  けれど、離はなれて暮らすようになってわかったこともある。たとえば、母親は毎日家で、家族の食事を作って、洗せん濯たくをして、風ふ呂ろやトイレを掃そう除じして、色々な面めん倒どうを一手に引き受けてくれていたのだ。それを当たり前のことだと、一いつ緒しよに暮らしていた頃ころの咲太は思っていた。  全部自分でやらなければならなくなって、気づいたことはある。変わったことはある。些さ細さいなところで言えば、トイレは座ってするようになった。  たぶん、母親だって色々と我が慢まんしていたことがあったんだと思う。家族に気づいてほしいことだってあったんだと思う。だけど、咲太の前では一言も口に出さなかった。顔にだって出さなかった。「ありがとう」のひとつも要求してこなかった。  そうした日々の感謝を返せなかったことを考えれば、恨むのも筋すじ違ちがいな気がする。この一年で、咲太はそう思えるようになった。  月に一度のペースでお互たがいの近きん況きようを報告し合っている父親に対しても同じだ。母親の看病をしながら、毎月の咲太とかえでの生活費を別に用意してくれている。咲太が必死にバイトをしたところで、今住んでいるマンションの家賃すら払はらえないという現実を知れば、やっぱりそこは認めていかなければならない。自分ひとりで生きているわけではないのだということを……。 「かえでの件を通してわかったんですよ。自分はまだガキで、大人だってなんでも解決してくれるわけじゃないんだっていう……そんな当たり前のことに」 「ふ~ん、すごいわね」 「うわー、すごいバカにされてるなぁ」 「してないわよ。それに気づいてないクラスメイト、たくさんいるでしょ?」 「気づく切きっ掛かけがなかっただけで、問題に直面すればみんな気づきますよ」 「それで、この話はどこへ向かうのかしら?」  麻ま衣いが窓を気にしている。そろそろ海が見える頃ころだ。  質問の内容はきちんと覚えてる。  ──咲さく太たはどうして私に構うの?  それが話の発ほつ端たんだ。 「ひとりだけいたんですよ。かえでに起きた思春期症しよう候こう群ぐんの話を、真面目に聞いてくれた人が……」  その人物との出会いがなければ、恐おそらく咲太はかえでの事件を乗り切れなかったと思う。  あのときに、思い知った。  孤こ独どくよりも恐ろしいものがこの世界にはあることを。  孤こ立りつこそが一番恐ろしいものであることを。  きっと、誰だれもが潜せん在ざい的てきにそれに気づいている。だから、それを恐れるあまり、メールの即時返信ルールや、既き読どくスルーは許さないなんて決まりが生まれるのだ。それが、結局は自分たちの首をさらに絞しめつけるとも知らずに……。それこそが、孤立を生み出す原因になっているとも知らずに……。 「僕ぼくを信じてくれた人がいたんです」  その姿を思い出すと少し切ない。名前を反はん芻すうすると下した唇くちびるをぐっと嚙かみ締しめてしまう。 「それ、女でしょ」 「え?」  ずばっと指し摘てきされ、咲太はぎくりとした。麻衣の平へい坦たんな冷たい声は迫はく力りよくがある。 「今、そういう顔した」  なんだか麻衣は面白くなさそうだ。  電車はいつも降りている七しち里りヶが浜はま駅のひとつ前……鎌かま倉くら高校前駅に停車する。  ドアが開いた途と端たん、麻衣が突とつ然ぜん立ち上がった。 「降りる」  デートの予定はこの電車の終点のはずだ。あと十五分ほど電車に揺ゆられる必要がある。 「え? 鎌倉は?」  確認の声をかけたときには、もう麻衣は電車の外にいた。 「あ、待って」  慌あわてて咲太も続いた。  数秒遅おくれて電車のドアが閉まる。のろのろと走り出した。その後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、麻衣は海に視線を向けた。  この駅は、海に面して建っているのだ。しかも、少し坂を上がった場所。当然、視界を遮さえぎるものは何もない。ホームに立って電車を待っているだけで、目の前の海を独ひとり占じめできる。  映画やドラマに出てきそうなロケーション。実際、撮さつ影えいにもよく使われているらしく、咲太もTVカメラを持った大人の集団を何度か目もく撃げきしたことがある。 「咲さく太たが一時間三十八分も遅ち刻こくしたせいで、もう夕方だし」  江えの島しまの方へと傾かたむいた太陽は、空を赤く染めはじめていた。 「少し歩くわよ」  海を指差した麻ま衣いは、咲太の返事を待たずに駅を出ていく。  その気ままな態度に苦笑いを浮うかべながらも、咲太は楽しい気分で隣となりに並んだ。  駅を出た咲太と麻衣は、なかなか青にならない国道134号線の信号を渡わたると、二十段ほど階段を下って七しち里りヶが浜はまの砂浜に出た。  江の島に背を向けて、鎌かま倉くらがある方へと歩き出す。  砂に取られた足は少し重たい。 「知ってる? 七里ヶ浜って、七里もないの」 「一里が約四キロで、この浜は三キロにも満たないんですよね」  つまり、さばを読んでいるどころの騒さわぎではない。 「つまんない」  どうやら、麻衣にとってはとっておきの情報だったらしい。 「千葉の九く十じゆう九く里り浜はまも九十九里ないらしいですよ」 「つまらないこと知ってるわね」  本当につまらなそうに麻衣が言い捨てる。 「自分から持ち出した話題のくせにそれ?」 「で、どんな人だったの?」 「ん?」  あえて、わからないふりをした。 「咲太の与太話を信じたメルヘン女」 「気になります?」 「名前は?」 「気になるんだ」 「いいから言いなさい」  これ以上からかうと本気で怒おこらせそうだった。 「名前は牧まき之の原はら翔しよう子こさん。身長は約160センチ。全部ひっくるめて麻衣さんより小さかったです。体重は知りません」  波の音を聞きながら、咲太はそう語り出した。 「知ってたら、その理由を問いただしているところよ」 「なんていうか、人の話をちゃんと聞いてくれて……でも、自分のペースは崩くずさないし、変に同情もしたりしない人でした」 「ふ~ん」  聞いてきたのは麻ま衣いなのに、その態度は素っ気ない。 「特とく徴ちようと言えば、峰みねヶが原はら高校の制服を着てたこと」 「……」  そこで、ようやく麻衣が視線を向けてきた。 「もしかして、その人を追いかけて峰ヶ原高校を受験したわけ?」 「かえでの事件があったあとじゃ、地元は辛つらいんで離はなれることは決めてたんですよ。もっと遠くの土地にしようって話もあったんだけど、今どきネットで情報なんてすぐに伝わるし、距きよ離りはあんまり関係ないかと思って……それで、ま、行き先をここにした理由は、麻衣さんの言う通りです」  素直に白状する。ここまで言ってしまったあとで、今さら隠かくしようもない。 「でも、ふられちゃったんだ」  人の不幸はなんとやら。麻衣は楽しそうだ。 「結果としては同じだけど、告白はしてません」 「わざわざ同じ高校に来たのに?」  何のために峰ヶ原高校に来たんだと、麻衣の視線が責めてくる。 「会えなかったんで」  砂浜に落ちた石を拾い上げ、海へと放り投げる。そう言えば、前にスマホを投げたのもこの辺りだった気がする。 「卒業してたんだ」 「出会ったのは僕ぼくが中三。彼女は高二って言ってたからそれはないはずなんだけど」 「じゃあ、転校?」 「だったら、まだよかったかな」 「違ちがったって口ぶりね」 「三年の教室を全部回って、当時の三年生に話も聞いて捜さがしたんですよ」 「そしたら?」  咲さく太たはゆっくりと首を横に振ふった。 「誰だれも牧まき之の原はら翔しよう子こなんて生徒のことを知らなかった」 「……」  麻衣はどう受け取ればいいか、迷っている様子だった。 「在校生の名めい簿ぼを全部調べて、留年も疑って……ここ三年くらいの卒業アルバムも当たったんだけどなあ」  けど、やっぱり見つからなかった。  牧まき之の原はら翔しよう子こという生徒が、峰みねヶが原はら高校に在ざい籍せきしていた記録は何もなかったのだ。 「わけわかんないと思いますけど、僕ぼくは確かに牧之原翔子って人と出会って、その人の存在に救われたのは確かなんです」 「そう」 「本人に恩返しはできそうにないから、麻ま衣いさんに無理やりしようとしてるのかも」  ひとりでは拭ぬぐい去さることのできない不安がある。誰かが側にいるだけで、救われた気持ちになれる。それを、二年前に咲さく太たは経験した。 「あとは、知りたいと思ってる」 「知りたい?」 「なんで、思春期症しよう候こう群ぐんが起こるのか。それがわかれば……」  自然と咲太の手は、自らの胸に添そえられていた。 「胸の傷、やっぱり気になる?」 「それなりに」  これから夏が近づいてくる中で、水泳の授業はなかなかに憂ゆう鬱うつだ。傷を消す方法があるのなら、ぜひとも消したい。 「ちゃんと解決できれば、かえでのためにもなるかもしれないし」 「そうね」  この先もずっと家から出られないというのは、もったいないと思う。毎日を、読書と猫ねこのなすのとのじゃれ合いだけで浪費するのは、絶対にもったいない。  いつかは、この砂浜にかえでを連れてきてあげたいと咲太は思っている。そのためには、思春期症候群のことをよく知って、かえでの例に当てはまる解決策を見つけたい。それこそが、最初に咲太が麻衣に興味を持った理由……。  わざわざ言わなくても、麻衣の横顔はそんなことはお見通しだと笑っていた。  咲太はもうひとつ石を摑つかんで海に投げた。弧こを描えがいた石が、ぼちゃんと海に落ちる。 「ねえ」 「……」  無言で麻衣の次の言葉を待つ。 「今でも彼女のことが好き?」 「……」  そうだとも、違ちがうとも、即答はできなかった。笑って適当にごまかすことも咲太はしなかった。 「牧之原翔子さんのことが好き?」  麻衣の問いかけを、もう一度自分の心の中で繰くり返かえす。  ──今でも彼女のことが好き?  今日まで避さけてきた問題だったのかもしれない。  ──牧まき之の原はら翔しよう子こさんのことが好き?  以前は、彼女のことを考えると、胸にちくりと痛みが走った。考えすぎると胸が苦しくなって、夜も眠ねむれなくなった。  でも、あれから一年が経過した今は違ちがう。違っていた。  本当はとっくの昔に結論なんて出ていたんだと思う。気持ちを言葉にするのを、無意識に避けていただけだ。それを、この場でなら言える気がした。 「すげえ、好きでした」  海に向かって想いを吐と露ろする。たったそれだけで、胸のつかえが取れたみたいだった。  切きっ掛かけなんてなくても、時間が気持ちを思い出に変えていく。失恋の傷もかさぶたみたいにふさがって、気づかないうちにぽろっと剝はがれ落おちている。そうやって、人は前に進んでいくのだ。 「どうせならもっと大きな声で叫さけびなさいよ」 「それをネタに、僕ぼくを一生からかう気でしょ」 「動画で記録してあげる」  麻ま衣いがスマホを構える。 「ほら、さっさと言いなさい」  心なしか、声が尖とがっているように思えるのは気のせいだろうか。 「なんかめちゃくちゃ怒おこってません?」 「はあ? 私が? なんで?」  明らかにむっとしている。苛いら々いらしている。刺とげ々とげしい視線と感情が、ぐさぐさと咲さく太たを突つき刺さしているではないか。 「聞いてるのはこっちなんだけど……」 「デートの最中に、他の女が好きだなんて告白されて、上じよう機き嫌げんになる人なんている?」 「『好きだった』だから。そこ重要!」 「ふ~ん」  少しも納得した様子はない。これは機嫌を取るのに時間がかかりそうだ。そんなことを咲太が思っていると、 「う~み~」  という能天気な声が聞こえてきた。  見れば、砂浜に続く階段に、一組の男女の姿があった。  男の方はくせ毛のもじゃもじゃ頭。首に大きなヘッドフォンをかけている。  女の方は小こ柄がらで眼鏡。はしゃいで砂浜を駆かけ出だした彼氏の背中を、むすっとした表情で見ている。靴くつのかかとが砂に沈しずんで歩きづらそうだ。  ふたりとも年ねん齢れいは咲さく太たたちよりも少し上な感じ。大学生だろうか。  砂に苦戦していた彼女のもとへ、彼氏が引き返してきた。かと思ったら、 「バ、バカなことしないで」  と、抵てい抗こうする彼女をひょいっと抱かかえ上あげる。そのままお姫ひめ様さま抱だっこ状態で、波打ち際まで連れていく。 「もう、信じられない」  彼氏の腕うでから下ろされた彼女の頰ほおは赤い。一番近くにいた咲太の視線を、俯うつむいた感じでそれとなく気にしている。 「どういう神経してるのよ」  機き嫌げんを損そこねた彼女をよそに、彼氏は押おし寄よせる波を前に、「うおっ、波っ!」とか言って大はしゃぎだ。彼女の話を全然聞いていない。変わった組み合わせのカップルだ。 「寒いし、私、もう行くから」  そう言って回れ右をした彼女を、彼氏がすかさず背中から抱だき締しめている。  思わず、咲太は「おっ」と、声を上げてしまった。  でも、幸い、イチャイチャする大学生のカップルには聞かれずに済んだらしい。 「お前、すげえあったかいなぁ」 「……」  俯いた彼女は、何かぶつぶつと文句を言っていたようだが、意外と素直になすがままにされていた。彼氏の腕に口元を埋うめる仕草がとてもかわいらしい。  それとなく麻ま衣いを見る。 「寒くない」  先に釘くぎを刺さされてしまい、作戦は失敗。 「いや~、寒いなー」  海に向かって呟つぶやくと、麻衣からは呆あきれたような視線が返ってきた。  大学生のカップルは、手を繫つないで波打ち際を遠ざかっていく。  映画かドラマのワンシーンを見ているようだ。 「いいなー、あれ」 「そうね」 「ん?」 「な、なんでもない」  ぽろっと本音を口にしてしまったのか、麻衣は慌あわててそっぽを向いていた。 「手、繫いであげましょうか?」 「なんで上からなのよ」  そう言いながらも、咲太の出した手に、麻衣は素直に手を重ねてきた。でも、それは手を繫ぐためではなかったらしい。  麻ま衣いの手が離はなれると、咲さく太たの手には麻衣のスマホが残った。赤いウサギ耳のカバーがついたスマホだ。 「くれるの?」 「あげない」 「じゃあ……」  と質問の言葉を続けようとした咲太の視界に、スマホの画面が入る。  表示されていたのは一通のメール。  読んでもいいのかを目で尋たずねると、麻衣は少し緊きん張ちようしたような面持ちで頷うなずいた。  ──五月二十五日(日)、午後五時に七しち里りヶが浜はまの砂浜に来て  今日がその当日。あと五分で午後五時になろうとしている。  なぜ麻衣がメールを見せてきたのかわからなかった。  合点がいったのは、宛あて先さき欄らんが目に入ったとき。 『マネージャー』と記されている。  つまり、麻衣が母親に宛あてたメール。さらに、すでに送信されたメールだということをスマホの画面は教えてくれた。送信日はデートの約束をしたあの日。麻衣が芸能界に復帰すると教えてくれたあの日。咲太と別れたあとで送ったようだ。  もうすぐ約束の午後五時になる。 「会うんですか?」  スマホを返しながら、あえて咲太は確認した。 「会いたくない」 「なら、会わなきゃいいのに」  麻衣が中学三年生のときに出した写真集の内容で揉もめて、母親と絶ぜつ縁えん状態なのは知っている。別の事務所への移い籍せきがすでに決まっているのだし、今さら母親と直接話をする必要はないのではないだろうか。 「あ、もしかして、芸能事務所の契けい約やく問題的なものが残ってるとか?」 「あの人の事務所との契約は、活動休止と同時に切ってあるから大だい丈じよう夫ぶよ」  となると、あとは心の問題くらいしか思い当たらない。一種のけじめというか……。  波打ち際を見つめていた麻衣は、どこか浮うかない顔をしている。会うと決めたとはいえ、会いたくないという気持ちが見て取れた。 「『やりたくないことはやらない』っていうのが僕ぼくの持論」  誰だれにともなくそう告げる。 「それ、続きがあるんじゃないの?」 「ま、『やらなきゃならないことはやるしかない』っていうのとセットだけど」  海に向かって、咲さく太たは思い切り伸びをした。  避さけて通っていいことはある。  避けて通ってはいけないこともある。  世の中には、そのふたつがあるのだ。  避けて通っていいことまでやる必要はない。でも、避けて通ってはいけないことから目を背けていては、前に進めない。  そして、この場合、麻ま衣いにとって母親との対話は、後者の方なのだと麻衣は思っている。 「大だい丈じよう夫ぶですか?」  あえて直球で咲太は聞いた。 「自分で決めたことだから……それに、もう来たみたいだしね」  麻衣が江えの島しまの方から近づいてくる小さな人ひと影かげに気づいた。 「時間にはぴったりな人だから」  まだ距きよ離りが遠くて、咲太には相手を識別できそうにない。それでも麻衣が確信しているのは、やっぱり母娘だからだろうか。 「向こう行ってて」  野良犬を追おい払はらうように、麻衣がしっしっと手首を振ふる。 「せっかくだし、挨あい拶さつしようかな」 「……」  真顔で睨にらまれて、咲太は降参とばかりに両手を上げた。 「終わったらデートの続きをしてあげるから、少し離はなれて待ってなさい」 「はーい」  波打ち際から遠ざかり、砂浜に打ち上げられた流木に腰こし掛かける。  遠くに見えていた人影は徐じよ々じよに大きくなってきて、咲太の目にもその人物の姿がはっきりしてきた。  麻衣に似た気の強そうな美人。正しくは、麻衣が母親に似ているのだろうが……。  すらっとして背が高く、まだ若々しい印象。少なくとも、高校三年生の娘がいる母親には見えなかった。その姿を目の当たりにして、咲太は前にクラスメイトが「二十歳のときに産んだ子供らしいよ」と噂うわさしていたのを思い出した。  その話が本当ならまだ三十代。咲太から見ておばさんには変わりないが、『お母さん』という雰ふん囲い気きはまるでない。明るい色のスーツが余計にそう感じさせてくれる。  立ち止まった麻衣のもとへ、母親が一歩ずつ近づいていく。あと十歩くらいの距離。  麻衣が何か声をかけたのがわかった。「久しぶり」とでも言ったのだろうか。波と風の音にかき消されてしまい、ここまでは声が聞こえてこない。  母親はわずかに速度を落としただけで、足を止めようとはしない。麻衣に言葉を返した様子もなかった。  また麻ま衣いが何か言っている。身を乗り出して必死に語りかけていた。 「……」  おかしいと思ったのはそのときだった。  母親の視線が定まらない。左右を広く見回す仕草は、まるで待ち合わせの相手を捜さがしているかのように咲さく太たには思えた。  しかも、麻衣を目の前にしても立ち止まる気配がないのだ。 「……噓うそだろ」  嫌いやな予感がした。  心の中で「やめてくれ」と咲太が叫さけんだ瞬しゆん間かんだった。  母親は麻衣の真横を通り過ぎていく。  まるで麻衣のことが見えていないかのように……。  母を呼ぶ娘の声が聞こえなかったかのように……。  あまりにあっさりと通り過ぎた。  嚙かみ合あわないふたりの間に何が起きているのかは瞬しゆん時じに把は握あくした。胸に締しめ付つけるような痛みが走る。  愕がく然ぜんとした思いと、恐きよう怖ふが体に流れ込んでくるのを咲太は感じていた。  すかさず麻衣は母親の正面に回り込む。身み振ぶり手て振ぶりを交えながら、「私が見えないの?」と訴うつたえかけている。  その声は、咲太のところまで聞こえた。  けれど、麻衣の母親は再び麻衣を素通りする。置き去りにされた麻衣の両手がだらりと垂れ下がった。  その瞬間、咲太の足は前に出ていた。一直線に麻衣のもとへ向かう。麻衣の母親へと近づいていく。  残り十メートルくらいになったところで、母親が接近してくる咲太に気づいた。  残り五メートルほどで何かを確信したのか、 「あなたなの?」  と、不ふ機き嫌げんな感情をぶつけてきた。その様子が麻衣によく似ていて、咲太は面食らってしまった。 「私をこんなところに呼び出した理由はなに? あなた誰だれ? 見たところ高校生くらいだけど面識ないわよね?」  立て続けにまくし立ててくる。 「梓あずさ川がわ咲太と言います。高校生です。あそこの」  国道134号線の上にある峰みねヶが原はら高校の校舎を視線で示した。 「そう。それで、その梓あずさ川がわ咲さく太たさんが何の用? 私、忙いそがしいのよ」 「いや、用事があるのは僕ぼくじゃないです」  母親の背後に立った麻ま衣いから視線を感じた。  少し悩なやんだような素そ振ぶりを見せたが、結局はゆっくりと頷うなずいた。たぶん、麻衣はこの事態を想定していたのだ。そして、この最悪な状じよう況きように備えて、咲太をここへ連れてきた。デートをエサにして……。 「なら、どなたの用事?」  少し変な質問だと思った。 「麻衣さんですよ。わかってますよね?」  メールを受け取ったからこそ、母親はここへやってきた。今、麻衣のことが見えなくてもその事実は変わらないはず。 「……」  じっと麻衣の母親が咲太を値ね踏ぶみしてくる。 「誰だれが呼び出したのか、もう一度言ってくれる?」 「麻衣さんです」 「そう」 「はい」  母親は風でなびく髪かみを手で押おさえると、 「誰よそれ」  と言ってきた。 「っ!?」  麻衣の目が驚きよう愕がくに見開かれる。瞳ひとみの奥おくには激しい動どう揺ようが見て取れた。それも当然だ。実の母親に「誰よそれ」と言われたのだ。 「あんたの娘だろ!」  感情だけで咲太は反応していた。絶ぜつ縁えん状態とは言え、母親の反応は酷ひど過すぎる。 「私に麻衣なんて娘はいないわ。冗じよう談だんはよして」 「冗談はどっちだ!」  煮にえたぎる咲太の激情とは裏腹に、母親の態度は冷えていく一方だ。 「ねえ、なんなのこれ? あなた、ウチの事務所に入りたいとかそういうの?」 「そんなわけあるか。なに言って……」  もう一度母親と目を合わせた瞬しゆん間かん、咲太は言葉を詰つまらせた。その目が、かわいそうに咲太を見ていたことに気づいたから……。先ほどの「誰よそれ」は、正しよう真しん正しよう銘めい、『桜さくら島じま麻衣』が誰なのか……それが、わかっていないからこそ、出てきた言葉なのだと理解してしまった……。  母親の瞳には、ひとかけらの噓うそも混ざってはいなかった。 「そうだ。メール! 今日、ここで会う約束を麻ま衣いさんがメールで送ってますよね?」 「それを見せれば、このわけのわからない茶番の幕は下りるのかしら?」  ハンドバッグから母親がスマホを取り出して、画面を咲さく太たに向けてきた。 「……なんでよ」  その声は隣となりから覗のぞき込こんできた麻衣が発したもの。  もちろん、麻衣が見えていない母親には聞こえていない。  メールの文面は先ほど麻衣に見せてもらったものと同じだった。  ──五月二十五日(日)、午後五時に七しち里りヶが浜はまの砂浜に来て  差出人の欄らんには確かに『麻衣』と書かれていて、どこにも不思議な点はない。それなのに母親は、 「差出人が不明なの。でも、手帳にはわざわざ予定として入れて、しかも、無理に時間を空けてねじ込んだのは覚えてるんだけど……なんなのかしら、これ」  聞きたいのはこっちの方だ。確かに『麻衣』と書いてあるのに、母親にはその二文字が見えていないらしい。  今の話でわかったことと言えば、少なくともメールを受け取った三日前の段階では、差出人が実の娘の麻衣であると認識していたであろうこと。だからこそ、無理をして予定を空け、ここへ来る時間を作った。  けれど、当日を迎える前のどこかで、母親は麻衣のことを忘れた。見えないだけでなく、声が聞こえないだけでなく……完全に忘れてしまった。  信じられないが、母親の態度はそうでなければ説明がつかない。 「そんなバカなことがあるか」  思ったことが無意識に口を出ていた。自分で聞いてもぞっとするほどに、声は虚むなしく乾かわいている。 「そんなバカなことがあってたまるか」  二度目は母親に対して言っていた。 「面白い売り込みだけど、さすがに非常識すぎるわよ。もう少し社会というものを勉強してから出直してきなさい」  踵きびすを返すと、麻衣の母親は来た道を引き返していく。 「母親なのに!」 「……」  麻衣の母親は振ふり向むかない。歩みも止めない。 「なんで娘を忘れられるんだ!」 「……もういい」  麻衣の小さな声。 「なんで!」 「もういいから……」 「まだ話は終わってない!」  咲さく太たは母親の背中にありったけの感情をぶつけ続けた。 「……お願い、もうやめて」  今にも泣き出しそうな声に、全身がぞくりとした。麻ま衣いを余計に傷付けているのが自分だと気づき、咲太は押おし黙だまった。 「すいません」 「……」 「ほんとすいません」 「……ううん、いいの」 「……」  一体、麻衣の身に何が起きているのだろうか。  今の今までは、姿が人から見えなくなっていて、声が聞こえなくなっているだけだと咲太は思っていた。そう思い込んでいた。麻衣自身もそうだったはずだ。  ここにきて、大きな勘かん違ちがいをしていたのかもしれないという現実に直面した。  咲太と麻衣は、何もわかっていなかったのかもしれない。  見えなくて、聞こえなくて……母親の記き憶おくから、存在そのものが綺き麗れいさっぱり消えていたのだから……。 「……」  考えれば考えるほど、悪い予感しかしてこない。 「咲太」  不安そうに麻衣の瞳ひとみが揺ゆれている。  それを見て、麻衣も同じ疑念に捉とらわれているのだと咲太は気づいた。  ──母親だけでなく、他の人の記憶からも消えているのかもしれない  いつからなのかはわからない。見えなくなったときには、そうなっていたのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。  ただ、もし本当に他の人の記憶からも消えてしまっているのだとしたら……。  その疑念が確信に変わるのに、たいして時間はかからなかった。     4  登下校で使っている七しち里りヶが浜はま駅まで歩いた咲太と麻衣は、早々に帰りの電車に乗った。特にそうしようとやり取りがあったわけではなくて、自然とふたりの足は帰り道へと向いたのだ。  途と中ちゆう、咲さく太たは観光客のおじさんやおばさん、地元の小学生やお年寄りに声をかけた。もちろん、「桜さくら島じま麻ま衣い」について尋たずねるためだ。十数名に同じ質問をして、返ってきたのもまた同じ答えだった。  ──知らない  知っていると言った人はひとりもいなかった。麻衣のことが見える人も皆かい無むだった。  それでもまだ、咲太は心のどこかで期待していた。偶ぐう然ぜん知らない人に連続で声をかけてしまっただけかもしれないと思いたかった。けれど、そのわずかな希望もすぐに途と絶だえることになる。  藤ふじ沢さわ駅に到とう着ちやく後ご、咲太は公衆電話から女子アナの南なん条じよう文ふみ香かに連れん絡らくを入れた。前にもらった名めい刺しを財さい布ふに入れっぱなしにしておいたのは正解だった。 「はい」  少し他た人にん行ぎよう儀ぎな声で電話は繫つながった。 「梓あずさ川がわ咲太です」 「あら」  急に明るさが込められる。トーンが確実に一段階は上がっていた。 「君からラブコールをもらえるなんて、今日は特別な日になりそうね」 「ラブは一切ありませんよ」 「お姉さんとの危ない関係に興味はないの? 火遊び大歓迎なんだけどな」 「おばさんの間ま違ちがいでしょ」 「で、どうしたの?」  都合の悪い話は聞かない主義らしい。文香はあっさり話題を変えてきた。 「桜島麻衣さんの件です」 「なぁに、突とつ然ぜん」  文香の反応に、咲太は「おっ」と思った。  手応えを感じていた。  けれど、その期待はあとに続いた文香の言葉によって、脆もろくも崩くずれ去さる。 「それ、誰だれのこと?」 「……」 「もしもし?」 「桜島麻衣という人を知りませんか?」  もう一度聞き直す。 「知らないけど、誰?」 「じゃあ、その……写真の件は」  咲さく太たが取引に差し出した胸の傷の写真。少なくとも、それはまだ文ふみ香かの手元にあるはずだ。そして、それを公表しないように、文香は麻ま衣いと約束している。麻衣の芸能界復帰について独占的に報道する権利と引ひき換かえに……。 「あれは出さないって約束でしょ? 覚えてるわよ。ちゃんと守る」 「約束って誰だれと?」 「咲太君に決まってるじゃない。どうしたの? ……大だい丈じよう夫ぶ?」  心配が半分、様子がおかしい咲太に対する興味が半分という感じだった。これ以上は、話を続けない方がいいと咲太は思った。藪やぶ蛇へびになりかねない。 「大丈夫です。すいません。写真のこと心配でつい、変なこと言っちゃいました」 「信用ないな~」 「お忙いそがしいところお邪じや魔ましました。失礼します」  冷静でいられるうちに、咲太は電話を切った。  受話器を戻もどす。その手は妙みように重たかった。  ゆっくりと振ふり向むき、後ろで待っていた麻衣に首を振る。  最初から期待はしていなかったのだろう。麻衣は「そう」と短い感想を口にしただけで、表情には何も出さなかった。 「今日はありがと。じゃ」  淡たん々たんと別れの挨あい拶さつを告げて、麻衣が後ろを向く。躊躇ためらうこともなければ、迷うこともなく、麻衣は帰り道に向けて真っ直ぐ歩き出した。  いつも通りの凜りんとした足取りで遠ざかっていく。  その背中を見ていると、咲太の胸は軋きしんだ。  このまま、二度と会えなくなるんじゃないかという焦しよう燥そうに駆かられた。  すると、体は勝手に動いていた。 「麻衣さん、待った」  追いかけて麻衣の手首を摑つかむ。  立ち止まってはくれても、麻衣は振り向かない。少し先の地面を見み据すえている。 「行こう」 「……」  麻衣がわずかに顔を上げた。 「行くってどこへ」 「まだ麻衣さんのことを覚えている人が、どこかにいるかもしれない」 「もう咲太以外の人は忘れてしまっているみたいな言い草ね」  麻衣が乾かわいた笑い声を上げた。 「……」  否定はしなかった。できなかった。そう考えてしまうだけの状じよう況きようが揃そろっている。そして、それは麻ま衣い自身も同じように考えたからこそ、今の発言が飛び出したのだろう。  それでも、信じたかった。ここではないどこか遠くの街に行けば、みんなが麻衣のことを知っていて、見ることができて、「あれ、桜さくら島じま麻衣じゃない?」と指を差されることを信じたかった。今はまだ信じていたかった。 「確かめに行こう」 「確かめてどうするの? 咲さく太た以外に見えないことがわかって、咲太以外に忘れられていることがわかって、何になるのよ!」 「少なくとも、その間、ずっと僕ぼくが側にいられる」 「っ!?」  不安でないはずがない。不安で仕方がないはずで、不安に押おし潰つぶされそうなはずなのだ。何が起きているのかもよくわからなくて、どうしてこうなったのかもわからない。明日がどうなるかもわからないのに、誰だれも待っていないひとりぼっちの家に帰るのは、絶対にこわいはずなのだ。  その証しよう拠こに、俯うつむいた麻衣の肩かたは小さく震ふるえている。 「というか、僕がまだ麻衣さんと一いつ緒しよにいたいってことなんだけど」 「……生意気」 「せっかくのデートだし」 「年下のくせに生意気」 「ごめん」 「手、痛いから離はなして」  力が入っていたことに気づいて、ぱっと手を離す。 「ごめん」 「謝ったくらいじゃ許さない」 「ごめん」  短い言葉の応おう酬しゆうは一いつ旦たんそこで途と切ぎれた。  それから、一分近い沈ちん黙もくを挟はさんで、 「……いいわよ」  と、麻衣がぽつりと呟つぶやいた。 「ん?」 「まだ私を帰したくないって言うなら、デートの続きをしてあげる」  顔を上げた麻衣は、悪戯いたずらっぽく咲太の鼻を指でつんっと押した。  いつの間にか、麻衣の震えは止まっていた。     1  藤ふじ沢さわ駅から東海道線の下り電車に乗って一時間弱。西へ約五十キロ。咲さく太たと麻ま衣いを乗せたオレンジと緑のラインが引かれたシルバーの車両は、神奈川県を飛び出して、温泉地として有名な静岡県の熱海あたみに到とう着ちやくしていた。  時刻は午後七時。  とにかく今は知る必要がある。  麻衣に何が起きているのか……。  誰だれに見えて、誰が覚えているのかを。  麻衣を中心に発現しているだけだと思っていた思春期症しよう候こう群ぐんが、一体どれだけの規き模ぼで麻衣を苦しめようとしているのかを知る必要があった。  少なくとも、ここへ来るまでの途と中ちゆう、茅ちヶが崎さき駅と小お田だ原わら駅のホームに降りてみたのだが、誰も麻衣のことが見えてはいなかった。  咲太が数人に声をかけて麻衣のことを聞いても、「はあ?」とか、「誰それ」とか、「知らない」とか、「最近の子はわからないわねえ」とか、そんな反応しか返ってこなかった。それは、到着して早々に熱海駅で聞いたのと代わり映えのしない答え……。  本当に、誰もが『桜さくら島じま麻衣』のことを忘れている。というか、最初から知らなかったという態度だった。  そうした人々の様子を、麻衣は無表情で見ていた。驚おどろきも、悲しみも、恐きよう怖ふも吞のみ込こんで、波ひとつ立たない水面のように平然としていた。  熱海駅のホームに立った咲太は、発車時刻を知らせる電光掲示板を見上げた。  次の駅に行くには、同じ東海道本線を使うにしても列車を乗のり換かえる必要がある。乗ってきた電車は熱海が終点だったのだ。  七時十一分に島しま田だ行きの電車が来るとわかった。それが何県のどの辺の駅なのかはさっぱりわかっていなかったが……路線図を見て、とりあえず静岡をさらに西へ向かうことだけ確認できれば、それで十分だった。  発車は六分後。わずかだが時間がある。 「妹に電話してきます」  麻衣にそれだけ言って、咲太は売店の脇わきにある公衆電話に駆かけ寄よった。小銭を用意して受話器を持ち上げる。番号をプッシュすると、呼び出し音が鳴りはじめた。  しばらくして、留守番電話に切きり替かわる。 「かえで、僕だ」  かえでは咲さく太た以外からの電話には絶対に出ないので、いつもこうして最初は留守電に話しかけている。 「もしもし、かえでです」 「よかった、起きてたか」 「まだ七時ですよ」  顔を見なくても、頰ほおを膨ふくらませているのが想像できた。 「どうしたんですか?」 「悪い、今日、帰れない」 「え?」 「遠くまで行く用事ができた」 「な、なんですか、用事って」 「それは……」  一いつ瞬しゆん、言葉に詰つまる。でも、すぐに咲太はかえでにも聞いておくべきだと思い、 「かえで、前に家に来た桜さくら島じま麻ま衣いってお姉さんのこと覚えてるか?」  と、受話器に告げた。 「知りません、そんな人」  あまりにあっさりと否定の言葉が返ってくる。 「……」  すぐに返す言葉が出てこない。軽く下した唇くちびるを嚙かんで、心が静まるのを待った。 「誰だれなんですか、その人」  焼きもちを焼くように、かえでが「むー」と唸うなっている。  咲太はそれをどこか上の空で聞いていた。自分のよく知る人間に、こういった形で現実を突つきつけられるのはやはりきつい。南なん条じよう文ふみ香かのときもそうだったが、見ず知らずの人に「知らない」と言われるよりも強きよう烈れつだった。  自分と共有しているはずの記き憶おくが消えていると実感するからだ。その瞬しゆん間かんだけは、咲太も当事者になっている。現実感がまるで違ちがった。 「知らないならいいんだ。今日の夕飯は、キッチンの戸と棚だなにあるカップ麵めんで我が慢まんしてくれ。好きなやつ食べていいから。なすのにもご飯をあげてな。あと、ちゃんと歯を磨みがいてから寝ねるんだぞ。また、電話する。じゃ、おやすみ」 「あ、え? お兄ちゃん!」  かえでの悲鳴の途と中ちゆうで、十円玉が切れてぶつんと電話は切れた。  電車も発車時刻を迎えようとしている。 「行こう、麻衣さん」 「そうね」  咲さく太たと麻ま衣いは二番線のホームに停車していた島しま田だ行きの電車に乗り込んだ。     2  熱あた海みを出た電車は太平洋側を通って、進路をさらに西へと取った。途と中ちゆう、島田駅と豊とよ橋はし駅で別の列車へと乗のり換かえる。静岡県を出て愛知県へ、愛知県から岐阜県へと向けて、数百キロの距きよ離りを移動していく。  その間、咲さく太たは知らない土地の人々に麻ま衣いのことを尋たずねたが、やはり誰だれひとりとして、『桜さくら島じま麻衣』を知っている人はいなかったし、麻衣が見えている人もなかった。  そして、今、ふたりは大おお垣がき行きの電車に揺ゆられていた。  恐おそらく、今日、麻衣のことを確認しに行けるのはそこまで。到とう着ちやくする頃ころには、日付も跨またいでいることはわかっている。一駅進むごとに乗客が減っていっていた。  車輪とレールの軋きしむ音。レールのつなぎ目で生じる震しん動どう。人の気配が消えていく代わりに、それらが次第に子こ守もり唄うたのように聞こえてくる。  四人掛がけのボックスシートが空いたところで、咲太と麻衣はそこに並んで座った。 「岐阜県の中では、岐阜市に次いで人口が多いんだって」  スマホを見ていた麻衣が急にそんなことを言う。 「何の話?」  同じ車両に、他の乗客は殆ほとんどいない。三人ほどが離はなれた座席に座っているだけ。気分的には麻衣とふたりっきりの状じよう況きようと大差ない。 「大垣の話」 「ああ」  おかげで、小さな話し声も大きく聞こえる。 「あと、地下水が豊富だって書いてある」 「水がきれいなとこは大歓迎」 「……」 「……」  ふたりが口を閉ざすと、電車の走る音が間を埋うめていく。当然、外は真っ暗で車窓を楽しむことはできない。それでも麻衣は窓の下の小さなテーブルに肘ひじを突ついて、知らない土地の景色に目を向けていた。  お互たがい何も言わずに十分くらいは経過したと思う。 「ねえ、咲太」 「なんですか?」 「私のこと見えてる?」  ガラスに映った麻ま衣いの瞳ひとみは、横を向いた咲さく太たの顔を捉とらえていた。 「見えてますよ」 「声、聞こえてる?」 「ばっちりと」 「私のこと覚えてる?」 「桜さくら島じま麻衣。神奈川県立峰みねヶが原はら高等学校の三年生。子役として芸能界にデビューして、まあ、色々と大だい活かつ躍やく」 「なによ、色々って」 「芸能界なんて場所で幼少期から過ごしてきたせいか、性格は歪ゆがんでいて素直じゃない」 「どこがよ」 「不安なくせに、それを隠かくしているところ」  そう言いながら、咲太は思い切って麻衣の手を握にぎった。  麻衣が少し驚おどろいたように眉まゆを上げ、握られた手に視線を落とす。 「私、握っていいなんて言ってない」 「僕は握りたい」 「……」 「ちょっとくらいご褒ほう美びくれてもいいと思うなあ」 「……仕方ないわね」  視線を窓の外に戻もどした麻衣の指が、咲太の指と指の間に滑すべり込こんでくる。  恋人つなぎ。  くすぐったくて、ドキッとした。 「今だけ特別よ」  そう言った麻衣の横顔は、少し照れくさそうだった。同時に、面食らった咲太を見て、楽しんでいるようでもあった。  やがて、車内アナウンスで次が終点の大おお垣がきだと知らされる。  咲太と麻衣は、電車が到とう着ちやくするまで、握った手を離はなさなかった。  大垣駅のホームに降り立ったのは、とっくに日付も変わった零れい時じ四十分頃ころ。  駅員に麻衣のことを聞き、「いや、知りませんね」と言われてから改札を出た。  なんとなく南口へ出て、バスロータリーの辺りまで歩いたところで立ち止まる。何もない駅だった場合、どうしようかと思っていたが、市の中心地らしく駅ビルや商業施し設せつが並んでいた。これなら今夜の宿くらいどうにかなりそうだ。  問題はどこで一いつ泊ぱく過ごすか。咲太ひとりなら漫画喫きつ茶さをホテル代わりにすればいいのだが、麻衣を連れていくのは忍しのびないし、咲太に釘くぎを刺さすつもりだったのか、電車を降りたときに、「お風ふ呂ろ入りたい」と麻ま衣いが言ってきた。  咲さく太たも気持ちは同じだが。  デート中も七しち里りヶが浜はまの潮しお風かぜを散々浴びたので、シャワーで流したかった。少しべとつくし、服が潮くさい気がする。  色々と考えはしたものの、咲太は無難なところで駅前のビジネスホテルを頼たよることにした。  部屋が空いているかを尋たずねると、フロントのおじさんには怪あやしい目を向けられた。殆ほとんど手ぶらの高校生が深夜に泊とめてほしいと言ってきたのだから当然の反応だ。  それでも無事にチェックインをパス。変な疑いが拡かく大だいしないよう、先に一いつ泊ぱく分ぶんの料金は支し払はらっておいた。  麻衣は姿が見えないのでチェックインのしようがない。一いつ緒しよの部屋でもいいかお伺うかがいを立てようとした咲太だったが、その必要はなかった。麻衣はさっさとエレベーターホールに向かっている。  一階で停止していたエレベーターに乗り込み六階へ上がる。  部屋は廊ろう下かの突つき当あたり。601号室だ。  カードキーの使い方がいまいちわからずに首を捻ひねっていると、麻衣の手が伸びてきてドアを開けてくれた。 「一度差して抜ぬけばいいのよ」  練習のつもりで咲太もやってみた。なんかこう、手応えがなくてすっきりしない。開けた感じがしない。でも、ドアは麻衣の言う通り、きちんと開いた。  部屋はシングル。ベッドがひとつ。申し訳程度の鏡台兼けんテーブル。そのための椅い子すがあるくらい。あとは、19インチのTVと小さい冷蔵庫、それとポットが置いてある。  はっきり言って狭せまい。部屋の七割をベッドが占せん拠きよしている。 「狭っ」 「こんなものでしょ」  麻衣はベッドにすとんと腰こし掛かける。リモコンでTVをつけて、ブーツを脱ぬぎ出だした。足をぶらぶらとさせてチャンネルを一通り回したら、さっさと消してしまう。  座った態勢からばたんとベッドに倒たおれた。さすがに疲つかれているのだろう。殆ほとんど移動しかしていないが、その移動で咲太も疲れ切っている。気だるい疲ひ労ろう感かんが全身に伸のし掛かかっていた。 「お風呂入る」  麻衣がむくりと起き上がる。 「どうぞどうぞ」 「覗のぞかないでよ」 「大だい丈じよう夫ぶです。僕ぼくはシャワーの音だけで、ご飯三杯はいけるくちなんで」 「……」  麻ま衣いが無言で、びしっとドアの方を指差した。出て行けという合図だ。 「ここは、シャワーの音だけ聞かせて、年下の男子を悶もだえさせるのが、余よ裕ゆうのある大人の女性の嗜たしなみだと思うけどなあ」 「わ、わかってるわよ、もちろん」  はじめからそうするつもりだったと言わんばかりに、麻衣が鼻を鳴らした。 「その代わり、ひとりで変なことはじめないでよ?」 「変なこと?」  わかっていてすっとぼける。 「へ、変なことは変なことよ。バカ、知らない!」  ふんっと顔を背けて、麻衣がバスルームに向かう。ばたんと強くドアが閉まった。鍵かぎもちゃんとかけているのが音で伝わってくる。 「今の、すげえかわいかったな……」  やがて、シャワーの音が部屋に響ひびき出だした。  咲さく太たはそれを聞きながら、部屋に備え付けられた固定電話を確認した。きちんと外線にもかけられるようだ。  受話器を持って、唯ゆい一いつ暗記している友人のケータイ番号を押おした。  三回目のコールが途と中ちゆうで途と切ぎれると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。 「何時だと思ってるんだよ」  眠たそうな佑ゆう真まの第一声。 「一時十六分だな」  時刻はベッドの時計が教えてくれた。 「わかってるよ、そんなこと」 「寝ねてたか」 「部活とバイトで疲つかれた俺おれは、熟じゆく睡すいしてた」 「緊きん急きゆう事態なんだ。助けてくれ」 「なにすりゃいいの?」 「まず質問なんだが、桜さくら島じま先せん輩ぱいのこと覚えてるか?」  どうせ無理だろうという気持ちがあった。今日、何十……下手をすれば百名近くに麻衣のことを尋たずねたが、咲太の聞きたい返事はもらえなかったのだから。 「は? 当たり前だろ」 「そっか、知らないよな」  反射的な相あい槌づち。 「いや、知ってるだろ」  まだ寝ぼけた佑真の声が、ゆっくりと脳を揺ゆさぶってくる。  今、佑ゆう真まはなんと言っただろうか。 「国くに見み!」 「うおっ、急に大声出すなって」 「お前、桜さくら島じま先せん輩ぱいのことわかるのか? 桜島麻ま衣い先輩だぞ」 「だから、わかるに決まってんだろ」  理由はわからない。さっぱりわからないが、意外な形で、咲太は捜していた人間をひとり見つけることができた。その喜びと驚おどろきと戸と惑まどいに、心臓は痛いくらいに脈打っている。 「用事はそんだけ? 寝ねるぞ、俺」 「待った。双ふた葉ばのケータイ番号を教えてくれ」 「ま、いいけどさ」  だいぶ目が覚めてきたらしく、佑真はぶつぶつと散々文句を言いながら、双葉理り央おの番号を読み上げた。それを、咲太はテーブルの上にあったメモ用紙に綴つづる。 「咲さく太た、今からかけるんだよな?」 「だから聞いたんだよ」 「非常識だって、双葉に怒おこられると思うぞ」 「安心しろ。僕ぼくもそう思ってる」 「ああ、安心した。今度昼飯くらいおごれよ。双葉も一いつ緒しよにさ」 「わかった。おやすみ」 「おう、おやすみ……」  佑真との電話が切れた。  続けて、咲太は理央に電話をかける。すぐに繫つながり、「梓あずさ川がわだけど」と名乗った。 「何時だと思ってるわけ?」  意外とはっきりした理央の不ふ機き嫌げんな声。もしかしたら、まだ起きていたのかもしれない。 「一時十九分だ」 「二十一分。その時計遅おくれてるよ」 「あ、そうなのか」  ビジネスなホテルなのだから、正しくセットしておいてほしい。 「今、いいか? ま、よくなくても相談に乗ってもらいたい」 「まだ厄やつ介かいなことに足も首も突つっ込こんでるんだ」 「別に厄介ってほどじゃない」 「後ろで聞こえるシャワーは桜島先輩でしょ?」 「……よくわかったな」  鋭するどすぎる指し摘てきに驚きつつも、咲太は強きよう烈れつな違い和わ感かんを覚えていた。 「こんな時間に梓川のかわいい妹はシャワーを浴びないだろうし。それに、家からの電話じゃないのは表示された番号を見れば明らか」  理り央おの推理を聞いているうちに、咲さく太たは違い和わ感かんの正体に気づいた。 「双ふた葉ばも、桜さくら島じま先せん輩ぱいのこと覚えてるんだな? 知ってるんだな?」  確認の言葉を投げかける。 「あの有名人を知らないわけがない。梓あずさ川がわはバカなの?」 「そのバカなことが起きてるから電話したんだ。こんなバカな時間に」  理央が一度「ふう」と息を吐はく。 「わかった。バカな梓川のそのバカな話とやらを聞いてあげるよ」  約二十分をかけて、咲太は麻衣に起きている現象のすべてを理央に説明した。憶おく測そくは抜ぬきにして、見たことをありのままに伝える。理央は時折確認の言葉を挟はさんだが、咲太の話を全部聞き終えるまでは、あくまで聞き手に回ってくれた。 「……というわけだ」  話し終えると、理央はしばし口を噤つぐんだ。やがて、 「なるほど」  とだけ口にする。そして、少し考え込むような吐と息いきをもらしたあとで、 「まさか、そこまで梓川と桜島先輩の関係が進んでいたとは驚おどろきだね」  と言ってきた。 「おい、僕ぼくの話の何を聞いてた」 「聞きたくもない梓川の恋愛話」 「そっちの件で相談をした覚えはない」 「今のはのろけにしか聞こえない。こんな時間に非常識なやつ」 「のろけてもいない」 「なら自じ慢まん?」 「もってのほかだな」 「そうは言って、突とつ拍ぴよう子しもなさすぎる」  理央がいかにも面めん倒どうくさそうに言ってきた。 「ま、それはそうなんだけど……よく考えてみろ。僕とあの『桜島麻衣』が一いつ緒しよにいる事実を前にしたら、人が見えなくなったり、記き憶おくから消えたりしても不思議はないだろう」 「あ、それもそっか」 「……お前ね」  今のは冗じよう談だんのつもりで言ったのだが、理央は素直に納得していた。 「とは言っても、前にも話したことあるけど、私は思春期症しよう候こう群ぐんの存在については否定的なんだよ」 「知ってる。理り屈くつに合わないんだろ?」 「そ」  それでも咲さく太たをほら吹き呼ばわりしないのは、かえでに起きた現象と傷のこと、加えて咲太の胸に刻まれた爪つめ痕あとを見せたことがあるからだ。そのときに理り央おは、「理屈には合わないけど、梓あずさ川がわの言っていることを信じた方が、色々と辻つじ褄つまは合う」と言っていた。  当然だ。咲太は何ひとつ噓うそを言ってはいないのだから。地元を離はなれ、峰みねヶが原はら高校にやってきた背景には、かえでの思春期症しよう候こう群ぐんが絡からんでいる。それがなければ、普ふ通つうに地元の高校に行っていただろうし、牧まき之の原はら翔しよう子こに出会うこともなく、峰ヶ原高校の存在を知る機会すらなかったはずなのだから。 「それで、私は何を期待されてんの?」 「なんでこんなことが起きているのかを考えてほしい。解決する手段を見つけてほしい」 「無茶苦茶だね、梓川は」 「必死だからな。無茶苦茶にもなる」 「……」 「あれ? 双ふた葉ば? 切れた?」 「前に国くに見みが言ってたよ」 「は?」  どうしてここで佑ゆう真まが出てくるのだろうか。 「『ありがとう』と『ごめん』と『助けてくれ』を言えるのが、梓川のいいとこだってさ」 「国見と双葉にしか言わないぞ」  咲太の照てれ隠かくしは、鼻で笑い飛ばされてしまった。 「わかった。考えるだけ考える。期待はしないで」 「いや、する」 「あのさぁ……」 「ありがと、ほんと助かる」  正直、咲太も不安なのだ。先がまったく見えない。この恐きよう怖ふは、かえでに起きた思春期症候群のとき以来。何と戦えばいいのかすら、今はまだわかっていない。それがこわい。  いずれは、咲太も麻ま衣いが見えなくなってしまうのかもしれない。声が聞こえなくなってしまうのかもしれない。麻衣のことを忘れてしまうのかもしれない。なによりも、それがこわかった。 「明日、学校は?」 「今、大おお垣がきってところだから朝は無理だろうな。けど、なんで?」  理央が意味もなく明日の予定を聞いてくるとは思えない。 「ざっと考えた限りで、私と梓川と国見の共きよう通つう項こうなんて学校くらいしかない」 「なるほど」 「となれば、学校に原因があるのかもしれない。そう思ったわけ」 「……それ、当たってるかも」  ふと咲さく太たはあることを思い出していた。今日……とは言っても、日付は昨日だが、デートの待ち合わせ場所でのこと。迷子の女の子と一いつ緒しよに出会った女子高生……古こ賀が朋とも絵え。  駅で再び鉢はち合あわせたとき、朋絵には麻ま衣いが見えていた。その友達にも麻衣が見えていた。 「こんなとこまで来たのは無む駄だ足あしだったか……」  そう思いながら、理り央おに朋絵とその友達のことを追加で伝えた。 「少なくとも現状を把は握あくする情報になってるんだから、無駄ってことはないよ。おかげで、峰みねヶが原はら高校に原因があるかもしれないって思えてるんだしね」 「そっか……なら、よかった。明日は、昼になるかもしれないけど、学校には行く。夜中に悪かった」 「まったくだよ」  理央があくびを嚙かみ殺ころしながら電話を切る。咲太も受話器を置いた。  意味もなく立ちっぱなしだったことに気づいて、すとんとベッドに腰こし掛かける。  いつの間にか、シャワーの音は聞こえなくなっていた。理央との電話に集中していたせいか気づかなかったらしい。 「うわー、もったいないことした」  そんな後こう悔かいを口にしていると、バスルームのドアが少しだけ開いた。その隙すき間まから、タオルを頭に巻いた麻衣が、顔だけをひょこっと出してくる。ちらりと見えた湯上がりの肩かたは桃もも色いろに火照り、湯気が立っていた。 「下着、どうしよう」 「は?」 「服は一緒でもいいけど、靴くつ下したと下着は嫌いや」 「僕ぼくが洗せん濯たくしましょうか?」 「死んだ方がまし」 「麻衣さんの下着だったら、汚よごれてても気にしないのに」 「よ、汚れてない!」 「むしろ、その方が価値あるのに」 「変態思考から離はなれなさい」  頭に巻いたタオルを取ると、麻衣が咲太に投げてきた。顔面に直ちよく撃げきする。避よけるのを忘れてしまったのは、しっとりと濡ぬれた麻衣の髪かみに誘ゆう惑わくされたからだ。  けれど、避けないで正解だった。シャンプーの香かおりなのだろうけど、タオルからは甘いにおいが漂ただよっていたから。 「今、麻ま衣いさん、ノーパン、ノーブラ?」 「バスタオルは巻いてる」 「おお」 「変な想像して盛り上がるな」 「妄もう想そうだからいいよね」 「どうして咲さく太たはこうエッチなのかしら」 「美人の先せん輩ぱいとホテルにいて、興奮するなって方が無理」 「私のせいだって言いたいの?」 「控ひかえめに見積もっても、半分は確実にそうだと思うな」  言いながら、咲太は立ち上がった。  ポケットの財さい布ふを確かめる。 「下着、コンビニで売ってるやつでいいなら買ってきます。僕ぼくも穿はき替かえたいし」 「いいの?」 「お金ならまだあるんで」  なけなしのお金が入った財布を麻衣に見せる。藤ふじ沢さわ駅を発つ前に、コンビニでバイト代を全部下ろした。五万円とちょっとではあるが、一枚五百円のコンビニパンツを買うくらいの余よ裕ゆうはまだある。 「そうじゃなくて……男の子ってそういうの恥ずかしいんでしょ?」 「ん? あ、そうかも。でも、慣れてるから」 「慣れてる?」  意味がわからなかったのか、麻衣はきょとんとした表情を見せた。 「妹の生理用品買っているうちに感覚が麻ま痺ひしました。今じゃ、女性店員の反応を楽しむ余裕まであります」  かえでは家からは出ない家好き少女なので、洋服や下着なども咲太が買っているのだ。 「迷めい惑わくな客ね」 「じゃ、行ってきます」 「待って、私も行く」  首を引っ込めると、麻衣はバスルームのドアを閉めた。鍵かぎがかかる音。とことん警けい戒かいされているというか、まったく信用されていないようだ。 「任せてくれていいのに」 「すごいの買ってきそうだし」 「行くのコンビニですよ?」  シンプルなやつしか置いてないはずだ。 「だいたい、男の子の選んだ下着を身に付けるなんて、いやらしいじゃない」  狭せまいバスルームで服を着ているためか、言葉の節々に「んっ」と吐と息いきが混ざっている。それがとても色っぽい。  少しすると、バスルームから響ひびいてくるのはドライヤーの騒そう音おんに変わった。  結局、十分以上も待たされて、麻ま衣いはようやく出てきた。 「ほら、行くわよ」 「はーい」  フロントを避さけて、裏の出口から咲さく太たは麻衣とホテルを出た。高校生のひとり旅はさすがに目立つ。チェックインの際に向けられた疑ぎ惑わくの視線は減らしておくに越したことはない。  この場合、麻衣の姿が見えないのが救いだ。男女のペアだったら、余計な憶おく測そくも増して、警察に相談とかされたかもしれない。まあ、見えていたら、そもそもふたりでこんなところまでやってくることもなかったのだが……。  左右の通りを確認する。駅から離はなれる方向に約五十メートル。緑色の看板を掲かかげたコンビニの明かりが見えた。  自然とふたりの足がそちらを向く。  人通りのない夜の道を、しばらく無言で歩いていると、 「なんか不思議」  と、麻衣が呟つぶやいた。  後ろに手を組んで、寝ね静しずまった街並みを眺ながめて歩く麻衣の横顔は、どこか楽しげに見えた。 「ん?」 「こんな風に知らない街に今いること」  わざと踵かかとを鳴らすようにして、麻衣は足を進めていた。兵隊さんの行進のようだ。 「ドラマや映画の撮さつ影えいで、色々な場所に行ったことあるんじゃ?」 「あれは、行ったんじゃなくて、連れて行かれただけよ」 「あー、それわかるな」  家族旅行で大おお垣がきよりも遠い沖おき縄なわに行ったことがある。中学の修学旅行ではここより少し先の京都まで行った。小学校のときは日光へ。学校の遠足で訪れた場所は他にたくさんあるけど、どれも自分で行ったという感覚はない。  麻衣の言うように、連れて行ってもらったのだ。  だから、麻衣が感じているように、咲太も楽しいのかもしれない。藤ふじ沢さわ駅で東海道線に飛び乗った瞬しゆん間かん、味わったことのない高こう揚よう感かんを覚えたのかもしれない。  行き先もはっきりとは決めず、とにかく遠くへ行ける電車を選んだ。麻衣が見える人を探すために。麻衣を覚えている人を見つけるために……。  自分でここまで来た。当然、自分で帰らないといけない。その緊きん張ちよう感かんが楽しいのだ。  今、咲さく太たと麻ま衣いはちょっとした冒ぼう険けんをしている。思春期症しよう候こう群ぐんを抜ぬきにしても、非日常の中にいる。そういうはじめての楽しさ。 「撮さつ影えいのときは、それ以外の時間、ずっとホテルだったしね。知らない街なのに、そこに住んでる人はみんな私のことを知ってたから、出歩く気にはなれなかった」 「自じ慢まんですか」 「違ちがうってわかっててそういうこと言うのは構ってほしいから?」  お見通しだと麻衣の目が笑っている。 「ばれたか」  咲太の照てれ隠かくしは、麻衣に「甘えん坊さん」と鼻で笑い飛ばされた。 「でも、一番不思議なのは、知らない街を一いつ緒しよに歩くのが、年下の男の子だっていうことよね」 「僕ぼくだって、あの桜さくら島じま麻衣とこんな遠い街に来るとは思ってませんでした」 「光栄でしょ」 「一生、忘れません」  はっきりとした意思を持って、咲太はあえてその言葉を口にした。避さけて通ることはできない。現実として、麻衣は人々の記き憶おくから消えている。 「……」  麻衣は何も言わない。  だから、咲太はもう一度念を押おした。 「絶対、忘れない」 「……もし、忘れたら?」 「鼻からポッキーを食べる」 「食べ物で遊ばないの」 「考案したの麻衣さんじゃん」  口元に笑みを浮うかべるだけで、麻衣はそれ以上乗ってはこなかった。 「……ねえ、咲太」 「なに?」 「……ほんとう?」 「……」 「本当に忘れない」  揺ゆらぐ瞳ひとみが咲太を試すように語りかけてくる。 「麻衣さんのバニーガール姿は、ばっちりと脳に焼き付いてます」  ふうっと、麻衣が息を吐はく。 「あの衣装、まだ持ってるでしょ」  完全に決めつけた口調。事実なので構わないが……。 「もちろん」 「変なことに使ってるんだ」 「まだ使ってないって」 「帰ったら捨てなさいよ」 「えー」 「えー、じゃなくて」 「麻ま衣いさんがあと一回着てからでもよくない?」 「真顔で何を言ってるんだか」  麻衣は心底呆あきれた様子だ。  それでも、諦あきらめずに見つめていると、 「今日のお礼もあるし……一回だけよ」  と、わずかに照れながらも折れてくれた。 「ありがとうございます」 「年下の男の子の性欲を受け止めてあげるくらい、別にどうってことない」  台詞とは裏腹に、麻衣は顔を背けている。暗くてよくわからないが、顔は赤くなっていたのかもしれない。 「ま、今日はその前に下着を選ばないと」 「絶対に選ばせないからね」  議論は平行線のまま、ふたりはコンビニにたどり着いた。  コンビニに入ると、「いらっしゃいませー」という男性店員の気だるげな挨あい拶さつが飛んできた。店内に他の客の姿はない。もうひとりの店員は、ここぞとばかりにお菓子の棚たなの陳ちん列れつを整えている。  目的の生活用品は、入り口付近の棚に並んでいた。買い物かごを持って、麻衣とふたりでその前に立つ。  靴くつ下したにTシャツ、タオルにストッキング、もちろん、お目当てのパンツやキャミソールなども揃そろっている。  普ふ段だんじっくり見る機会がないので知らなかったが、思っていたよりも充実のラインナップだ。一品ずつが手に取りやすいように、プラスチックケースの中で小さく折りたたまれていた。  女性用の下着は、パンツとキャミソールのふたつ。サイズはSとMがあって、色は黒とピンクの二種類から選ぶことができる。  麻衣は迷う素そ振ぶりもなく、黒のパンツと同じく黒のキャミソールに手を伸ばして、買い物かごに落とした。最後に靴下も追加する。 「ピンクがいいなあ」 「別に咲さく太たに見せるわけじゃないんだから、どっちでもいいでしょ」 「うわー、すげえ見たい」 「バカ言ってるとバカになるわよ」  あくびを嚙かみ殺ころしながら、麻ま衣いはさっさとドリンクコーナーに行ってしまう。  食い下がっても仕方がないので、咲太は自分用のボクサーパンツとTシャツ、靴くつ下したをかごに入れて、麻衣を追いかけた。 「ま、黒もありだけどね」 「なにか言った?」 「いいえー」  ホテルに戻もどると、まずは着き替がえと一いつ緒しよに買ってきたおにぎりとサンドウィッチを無言でお腹に収めた。途と中ちゆうで食事はしたけど、食べたのはもう四時間ほど前だったのでお腹が空いていたのだ。  短い食事を済ませると、咲太はシャワーを浴びた。そして、出てきたところで、 「朝一番で帰ろう」  と麻衣に告げた。  少し驚おどろいた様子を麻衣が見せる。でも、納得したように、 「妹さんが心配するものね」  と言ってきた。 「まあ、それもあるんだけど、見つけたんですよ。麻衣さんのことを覚えている人間を」 「……本当に?」 「峰みねヶが原はら高校に通う、僕ぼくの友達です」 「いつの間にそんな」 「麻衣さんがシャワー浴びているときに、電話して」  部屋に備え付けられた固定電話を視線で示す。 「真夜中に非常識ね。友達なくすわよ」 「謝ったんで大だい丈じよう夫ぶでしょ」 「すごい自信」 「同じことをふたりからされても、僕は許すと思うんで」 「だといいけど……でも、そっか。まだ私のことを覚えている人は他にいるんだ」 「もしかしたら、原因は学校にあるのかもしれない」  確証はない。けれど、別の糸口もない。今はそこに望みをかけて行動するしかなかった。 「わかった。じゃあ、もう寝ねましょう」 「え~っと、僕ぼくはどこで寝ねればいいでしょうか」  ベッドに陣じん取どった麻ま衣いにお伺うかがいを立てる。パジャマ替がわりに宿しゆく泊はく用ようのケープをまとった麻衣が上うわ目め遣づかいに視線をよこした。 「床? お風ふ呂ろ? ホテルの人に怒おこられると思うので、廊ろう下かだけは勘かん弁べんしてください」  じっと咲さく太たを見つめたあとで、麻衣の視線がシングルのベッドに落ちる。  しばし考え込んだあとで、 「なにもしないって誓ちかえる?」  と聞いてきた。 「誓えます」  びしっと即答する。 「噓うそつき」  一ミリも信用されていなかった。 「ま、でも、ほいほいとホテルに連れ込まれた私も悪いんだし」 「僕がだましたみたいに言わないでほしいな」 「隣となりに寝るだけなら許してあげる」 「ほんとに?」 「廊下で寝たいの?」 「麻衣さんと寝たいです」  状じよう況きようが状況だけに、別の意味にも聞こえてしまう。 「……」  事実、麻衣の瞳ひとみが警けい戒かい色しよくを発している。 「麻衣さんの隣で眠ねむりたいです」  慌てて咲太は言い直した。 「……ほら」  麻衣がベッドを半分空けてくれた。そのスペースに咲太は体を滑すべり込こませる。先ほどまで麻衣が座っていた場所だけあたたかかった。 「……」 「……」  大人しく眠ろうしていると、 「ねえ、咲太」  と、麻衣が話しかけてきた。 「なんでしょうか」 「狭せまい」  無理もない。シングルのベッドにふたりはさすがに窮きゆう屈くつだ。寝返りも打てそうにない。 「僕ぼくに出て行けと?」  横を向くと、同じく体を捻ひねった麻ま衣いと目が合った。目と鼻の先に麻衣の顔がある。薄うす明あかりの中でも、ぴんと立ったまつ毛の数を数えられそうな距きよ離り……。 「何か話して」 「何かって?」 「楽しい話」 「ハードル高いなぁ。僕を困らせて楽しいデスカ?」  片言の日本語でお茶を濁にごした。 「どうかしら」  表情ひとつ変えずに麻衣がそんなこと言う。 「楽しくないのにその態度って、酷ひどくないデスカ?」 「咲さく太たは私にいじめられて楽しんでるじゃない」 「それをわかった上で、僕をもてあそぶとか、麻衣さん根っからの女王様だね」 「ドM体質の咲太に、私は仕方がなくご褒ほう美びをあげているだけよ」 「こんな美人の先せん輩ぱいにいじめられて悦よろこばない男はいないと思うけどな」 「それ、褒ほめてるの?」 「べた褒めです」 「ふ~ん」  そこで会話が途と切ぎれる。  ふたりの声がしなくなると、空調のブーンという震しん動どうと、バスルームの換かん気き扇せんの音が室内を支配していく。外を走る車の騒そう音おんもない。隣となりの部屋から物音だってしない。  咲太と麻衣だけ。  狭いシングルの部屋の中で、自分と麻衣の気配だけを咲太は感じていた。  咲太は麻衣から視線を逸そらそうとはしなかった。  麻衣も咲太から視線を逸らすことはなかった。 「……」 「……」  長い沈ちん黙もくがふたりの間を通り過ぎていく。  繰くり返かえす瞬まばたき。かすかに鼓こ膜まくを刺激する麻衣の吐と息いきの音。  何の前まえ触ぶれもなく、麻衣の唇くちびるがゆっくりと動いた。 「ねえ、キスしよっか」  驚おどろきはあった。けれど、動どう揺ようはしなかった。 「麻衣さん、欲求不満?」 「バーカ」  茶化した咲さく太たを、麻ま衣いは怒おこらなかった。戸と惑まどうわけでもなかった。恥はずかしがるわけでもなく、ただおかしそうに笑っていた。 「もう寝ねよ。おやすみ」  ぐるりと体を捻ひねって咲太に背中を向ける。  髪かみがしなやかに流れて、白い首筋が見えた。そのまま見ていたら抱だき締しめてしまいそうだったので、咲太は反対側を向いて、麻衣と背中合わせになった。 「ねえ、咲太」 「寝るんじゃないんですか?」 「今、私が震ふるえながら『消えたくない』って言って、泣き出したらどうする?」 「背中から抱き締めて、『大だい丈じよう夫ぶだよ』って、耳元で囁ささやこうかな」 「じゃあ、絶対に言わない」 「あれ、ご不満?」 「どさくさ紛まぎれに胸とか触さわられそうだし」 「お尻しりは?」 「ダメに決まってるでしょ」  面めん倒どうくさそうに軽くあしらわれてしまった。 「……芸能界への復帰も決めたのに、消えてる場合じゃないのよ」  続いた言葉は、囁ささやくような小さな声音だった。 「そうですね」 「ドラマに出て、映画もまたやりたいし……。舞ぶ台たいでお芝しば居いもしたい。すごいって思える監かん督とくや共演者、スタッフさんたちと、いいお仕事をして、『あ~、生きてる』って感じたい」 「あとは、ハリウッド進出とかね」 「ふふっ、それもいいわね」 「今のうちにサインもらっておこうかな」 「今でも十分に価値があるわよ。私のサイン」 「あ、それもそっか」 「ほんと……消えてる場合じゃない」 「……」 「せっかく、年下の生意気な男の子とも知り合って、学校に行くのも楽しくなってきたのに……」 「僕ぼくは絶対忘れない」  背中合わせのまま、咲さく太たはそっと声をかける。 「……」  返事はなかった。 「絶対に麻ま衣いさんを忘れない」 「絶対なんてあるの?」  その質問を咲太はあえて無視した。 「だから、キスなんていつだってできますよ。今じゃなくて……急がなくても……僕じゃなくても。ハリウッド進出だって、麻衣さんなら余よ裕ゆうだと思う。他のなんだってできる。僕はそう思う」 「……」  少しの沈ちん黙もくのあとで、 「……そうね」  と麻衣は答えた。 「残念。さっきのが、咲太が私のファーストキスを奪うばえる最初で最後のチャンスだったのに」 「それ、先に言ってくれたらしたのに」 「もうダメ」  喉のどの奥おくで麻衣がくすくすと笑っている。  でも、すぐに収まると、 「……ありがと」  と言ってきた。 「私を諦あきらめないでいてくれて、ありがと」 「……」  咲さく太たはもう寝ねたふりをして答えなかった。これ以上、話していたら、やっぱり抱だき締しめてしまいそうだったから。  やがて、穏おだやかな麻ま衣いの寝ね息いきが聞こえてきた。  咲太はそれを感じながら眠ねむろうとした。けれど、麻衣を隣となりに感じて、眠れるはずがなかった。     3  結局、咲太は朝まで一いつ睡すいもできず、外が明るくなるまでの数時間を、隣で眠る麻衣のかわいらしい寝息を聞きながら過ごすことになった。  当然、変な気分にもなる。けど、思い切って顔を覗のぞき込こんだりしても、麻衣に起きる気配はなくて、逆にひとりで盛り上がっている自分が妙みように子供に思えた。意識しているのは自分だけだと思うと虚むなしくなってくる。  ならば、さっさと眠ってしまいたいところだったのだが、隣に麻衣が寝ていることに加え、長ちよう距きよ離り移動の慣れない疲ひ労ろう感かんに体が驚おどろいているらしくて、まったく眠くならなかった。芯しんの方が熱を持って疼うずき、一晩中咲太の邪じや魔まをしてきたのだ。  そうして、無む駄だに時間だけが流れていき、カーテンの向こう側が明るくなってくる。  六時半を過ぎた頃ころ、麻衣が目を覚ましたので、「おはよう」と朝の挨あい拶さつを交わした。それから、チェックアウトの準備に入る。とは言っても、殆ほとんど手ぶらなため、咲太の準備などあってないようなものだ。  麻衣はそう簡単にはいかないらしく、まずはお風ふ呂ろに入ると言い出した。  たっぷり三十分以上。  やっと出てきたかと思えば、他にも色々と準備があるからと言われ、無理やり部屋を追い出された。理り不ふ尽じんこの上ない。  適当に時間を潰つぶすために、咲太は昨日と同じコンビニに朝ごはんを買いに行った。なるべくゆっくりと歩いて……。  戻もどったところで、クリームパンを一個ずつ食べ、ようやくチェックアウトをした。八時をゆうに回っていた。  大おお垣がき駅へと歩いて向かい、やってきた電車に乗り込む。これから数百キロの移動。ただ、昨日とは違ちがい、名古屋からは新幹線を使ったので、随ずい分ぶん早く咲太と麻衣は神奈川県は藤ふじ沢さわ市まで帰ってくることができた。  マンションに帰り着いたのは、まだ午前中。さすがは夢の超特急。超速い。  一いつ旦たんそれぞれの家に戻り、三十分後にマンションの前に集合する。 「締しまりのない顔ね」  先に制服に着替えて下で待っていた麻ま衣いは、あくびを嚙かみ殺ころす咲さく太たの顔を見るなりそう言ってきた。 「麻衣さんは、今日も美人ですね」 「ネクタイ、曲がってる。持ってて」  咲太に鞄かばんを押おし付つけた麻衣の手が襟えり元もとに伸びてきて、ネクタイを真っ直ぐに整えてくれる。 「まさか、こんなに早く麻衣さんと新婚プレイができるとは思いませんでした。ありがとうございます」 「バカは顔だけにしなさい」  咲太の手から鞄を奪うばうと、麻衣はひとりで歩き出してしまう。 「あ、待って」  早足で追いつき、隣となりに並ぶ。  見慣れたはずの街並みが、少しだけ懐なつかしく感じる。一週間くらい家を空けていたような気分が胸の中には居座っていた。  離はなれていたのは、昨日一日だけだというのに。  デートの約束時間に遅おくれたのだって、まだ昨日の出来事なのだ。それがすでに思い出に変わりつつある。  そんなことを考えていると、 「ふあ~」  と、あくびがもれた。さすがに徹てつ夜やのダメージは大きい。ここに来て急速に眠ねむたくなってきた。 「なあに? 寝ね不ぶ足そく?」  麻衣が、咲太の目を覗のぞき込こんでくる。たぶん、充じゆう血けつしている。 「誰だれのせいだと思ってるんですか」 「私のせいだって言いたいの?」 「昨日、麻衣さんが寝ねかせてくれないから」 「咲太が勝手に興奮するからじゃない」 「どっちかと言うと、緊きん張ちようしてたんだけどな」  もう一度あくびをしながら本心を答えていた。 「咲太にも可愛げはあるのね」 「麻衣さんは神経図太すぎ。よく熟じゆく睡すいできましたね」 「子供の頃ころから撮さつ影えいであちこち行ってたし、休きゆう憩けい時間に楽屋で寝てることもあったから。それに……」  途と中ちゆうで言葉を止めた麻衣は、悪戯いたずらを思いついた子供のような顔をしている。 「咲さく太たが隣となりに寝ねてるくらい、なんともないもの」 「いいことを聞いたので、次の機会には色々と悪戯いたずらをしようと思います」 「実際、何かする度胸なんてないくせに」  咲太と麻ま衣いが学校に到とう着ちやくしたのは昼休み。  殆ほとんどの生徒が昼食を終えたあとのまったりタイム。一部の生徒がバスケットコートで遊んでいる賑にぎやかな声が、中庭の方からは聞こえてきていた。  そんないつも通りの学校の雰ふん囲い気きが、久しぶりという気がした。春休みとか、冬休み明けに学校に来たという気分。  昇しよう降こう口ぐちで上うわ履ばきに履はき替かえたところで、 「校内を見てくる」  と麻衣が言い出した。 「僕ぼくは、双ふた葉ばのところ行ってきます。あ~、双葉っていうのは、麻衣さんのことを覚えてた友達で……」 「双葉ってことは女子よね? 意外」  立ち去ろうとしていた麻衣の足が止まる。 「双葉は名字です」  実際、女子で間ま違ちがってはいないが……。 「そう。またあとでね」  廊ろう下かの奥おくへと歩き出した麻衣の背中を、咲太は何気なく見つめていた。その麻衣の脇わきを、集めたノートの束を抱かかえた女子生徒や、授業で使うスライドを持った地理のおじさん教師、あとは「バスケ部の先せん輩ぱいが超やばい」とか言って盛り上がる女子のグループが通り過ぎていく。  誰だれも麻衣を気にしない。視線を向けたりもしていなかった。  それを咲太は不思議に思わなかった。  この光景はいつものことだ。  学校内で麻衣はそういう立場に置かれている。  腫はれもの扱あつかいが終着駅にたどり着いたかのような姿。見て見ぬふりを通り越して、それこそ空気のような存在に前からなっていた。  麻衣を無視して成立しているこの雰囲気は、何かによく似ていた。  考えるまでもなく、麻衣のことが見えなくなった人たちの反応だ。それと同じ態度を、峰みねヶが原はら高校の生徒たちは、以前からしていたのだ。それこそ、咲太が入学するよりも前から……。  そんな生徒たちの間を、麻衣が通とおり抜ぬけていく。  その様子は、思春期症しよう候こう群ぐんがもたらした光景と、やはりどこまでも酷こく似じしていた。 「……」  断片でしかなかった理解が、ひとつに繫つながりそうな予感がする。  原因の正体が、ぼんやりと見えてきた気がした。  学校に原因が存在するかもしれないという理り央おの意見に、咲さく太たの感覚が共感を覚えている。 「梓あずさ川がわ」  声をかけられて咲太が振ふり向むくと、白衣のポケットに両手を突つっ込こんだ理央が後ろに立っていた。  咲太の顔を見るなり、理央があくびをする。つられて咲太もあくびが出た。 「悪い知らせだよ」  いきなり理央にそう言われて、咲太は身構えた。 「私以外、桜さくら島じま先せん輩ぱいのことを忘れているかもしれない」 「……っ!?」  眉まゆをしかめる。確かに悪い知らせだった。 「少なくとも国くに見みは覚えていなかった」 「本当か?」  理央が噓うそを言う理由はない。この状じよう況きようで言っていい類の冗じよう談だんではないし、理央がそんな冗談を口にする性格でないことを咲太はよく知っている。  それでも、確認の言葉を咲太は反射的にもらしていた。噓であってほしかったからだと思う。 「桜島先輩の名前を出したら、国見は『誰だれだっけ、それ?』って困ってたよ。他の生徒がどうかはまだ確認してないけど……」  ならば、別の生徒に麻ま衣いのことを聞こうと思って、咲太は周囲を見回した。けれど、その必要性はすぐになくなった。  麻衣が走って昇しよう降こう口ぐちまで戻もどってきたのだ。息を弾はずませ、慌あわてた様子で……。表情は青白く怯おびえている。  呼吸を整えたあとで、麻衣は真っ直ぐに咲太を見つめると、 「まだ私が見える?」  と聞いてきた。 「はい。ちゃんと見えてます」  深く頷うなずきながら答える。麻衣の表情から緊きん迫ぱく感かんが取とり除のぞかれていく。 「よかった……」  ふうっと吐はき出だされた吐息は、安あん堵どに包まれていた。  でも、どうしてだろうか。  どうして、咲太と理央にだけ見えて、他の生徒には見えないのだろうか。麻衣を忘れてしまっているのだろうか。  少なくとも昨日の段階で、咲太と理央、佑ゆう真ま……それと、古こ賀が朋とも絵えとその友人たちには麻衣が見えていたはずだ。 「そうだ。古こ賀が朋とも絵え!」  咲さく太たはひとりで駆かけ出だすと、一年生の教室へと向かった。  一階の教室をひとつずつ見て回る。朋絵の姿を見つけたのは四つ目の教室。一年四組。窓際の机をくっつけて、昨日見かけた友達と一いつ緒しよにまだお弁当を広げていた。  ずかずかと教室の中へと入る。  先に友達が気づいて「あっ」と声を上げた。四人全員の目線が咲太を捉とらえる。 「昨日の……」  朋絵が咲太を見て、ぽつりと口にした。  それを見て、咲太は教卓の前で足を止めると、質問を投げかけた。 「桜さくら島じま麻ま衣い先せん輩ぱいを知ってるか?」  古賀朋絵を含む四人の一年生は、顔を見合わせてこそこそと内ない緒しよ話ばなしをはじめた。 「なにこれ、朋絵、どういうこと?」 「わ、わかんないよ」 「てか、さくら……まい?」 「誰だれ?」  とかやっている。 「昨日、江えノ電でん藤ふじ沢さわ駅の改札で、見ただろ」  朋絵たち四人が再び顔を見合わせる。各々、首を横に振ふっていた。 「どうして、忘れてんだ。芸能人の桜島先輩だぞ?」  咲太が一歩前に出る。 「よく考えてくれ。ほら、三年のすげえ美人で……そういう人がいただろ!」  さらに近づくと、朋絵は表情を強張らせていた。 「思い出してくれ!」  席に座った朋絵の肩かたに両手を置いた。 「わ、わかんないよ!」  怯おびえた様子で、朋絵は目に涙なみだを溜ためている。 「頼たのむよ!」 「いたっ」  手に力が入っていたことに気づく。 「咲太、やめなさい」  制止の声は耳元で聞こえた。咲太の手首を、麻衣の手が摑つかんでいる。  ゆっくりと、咲太は朋絵の肩から手を離はなした。 「悪い。どうかしてた。ごめん」 「う、うん……」 「ほんとごめん。邪じや魔ましたな」  再度、謝罪を口にして、咲さく太たは重たい足取りで教室を出た。 「梓あずさ川がわ」  遅おくれて追ってきた理り央おが、廊ろう下かの向こうからこっちに来いと手招きをしてくる。 「なんだよ」  理央が立ち止まったので、咲太は仕方なく麻ま衣いを残して近づいていった。 「ひとつだけ心当たりがある」  声を潜ひそめて、咲太にだけ聞こえるように理央は言ってきた。  ただ、その目は続きを言うべきか迷っているように咲太には見えた。 「言ってくれ」 「なあ、梓川……昨晩は寝ねたか?」  理央の話はそんな質問からはじまった。  その日の放課後、咲太は藤ふじ沢さわ駅まで麻衣と一いつ緒しよに帰り、駅で別れた。  こんなときだけど、咲太にはバイトのシフトがあって、休むわけにもいかなかった。麻衣からも、「そういうのはちゃんとしなさい」と言われた。  夜の九時まで眠ねむたい目を擦こすりながら労働に励み、家に帰る途と中ちゆう、コンビニに寄った。  陳ちん列れつ棚だなを確認しながら、店内をぐるりと一周。  目的の栄養ドリンクは、レジ前の棚たなにゼリー飲料なんかと一緒に並んでいた。  一本二百円くらいのものもあれば、大盛りの牛丼が食べられそうな値段のやつもある。それどころか、二千円以上もする商品まで発見した。一体、それぞれに何が違ちがって、どんなものが入っているのだろうか。  とりあえず、三本ほど手に取って、眠ねむ気け覚ざましのミント系ガムやタブレットと一緒にレジへ持って行った。  全部で二千円弱の出費。大おお垣がきまでの往復分やビジネスホテルの宿しゆく泊はく代だいと、昨日から財さい布ふは軽くなる一方だ。もはや殆ほとんど中身は残っていない。  とは言え、けちっている場合ではないのだ。  脳裏を過よぎったのは理央の言葉。  ──なあ、梓川……昨晩は寝たか?  その質問に対して、 「一いつ睡すいもしてない」  と咲太は答えた。そう答えることを理央はわかっていたようだった。 「私も一いつ睡すいもしてない」 「……」  その意味がわからず、続きの説明を咲さく太たは待った。 「ただの結果でしかないけど、理由はそこにあると思う。私は桜さくら島じま先せん輩ぱいと一いつ緒しよにいたわけじゃないし」 「……そうだな」 「前にした観測理論の話は覚えてる?」 「シュレーディンガーの猫ねこ」 「正直、バカげていると思ってたけど……」  そう言った理り央おの瞳ひとみは、少し離はなれたところに立たち尽つくす麻ま衣いの姿を映していた。どんな顔をするべきなのか、何か声をかけるべきなのか、理央はそれがわからずにいる様子だった。困こん惑わくが色いろ濃こく出ている。 「こうして目の当たりにすると、寒気が走るよ」 「思春期症しよう候こう群ぐんに?」 「違う。そうなる前から、あの人がこの学校の中で空気のように扱あつかわれていたことに」 「そうだな」 「私自身も空気を読んで、さもこの状じよう況きようが正しいことのように受け入れてた。何の疑問も抱いだくことなく」 「逆に、疑問に思わないからできるんだろ。何かまずいことをしているっていう自覚があれば、案外その通りには動けないんじゃないか?」  よくないことをしているとわかっていて、かっこ悪いと理解していて、情けないと知っていて、ダサいと把は握あくしていて……その上で、胸を張って、「クラスメイトを無視しています」なんて言えるやつはそうそういないと思う。どうかしている。  かえでに対するいじめが発覚した際、リーダー格の女の子がまさにそれだった。「何がいけないんですか?」と、けろっとしていた。  麻衣の件に関して言えば、原因は恐おそらく麻衣自身にもある。彼女は空気であろうとした瞬しゆん間かんがあるし、周囲がそう反応したことを受け入れていたのだから。  消えたいと願い、空気のように振ふる舞まってもいた。演じていた。 「でも、だからこそ、糸口はこの学校の空気にあるように思える」  咲太の思考を読み取ったかのように、理央がぽつりともらす。 「桜島先輩にとって、この学校こそが猫を入れた箱なんだよ」 「……」  誰だれも麻衣を見ていない。見ようとしていない。麻衣は誰にも観測されていなくて、存在が定まっていなくて……だから、消えていく。しかも、いなくなったのではなく、いなかったことにされていく。誰だれにも認識してもらえなければ、この世に存在していないのと同じだから……。  悪寒が走った。  理り央おの言葉の意味を、体が理解したのだ。  要するに、現象の原因は学校であり、全校生徒の意識にある。それも、もはや無意識にやっている麻ま衣いへの無関心。心にも留めていない。そういう感情とすら言えないような感情が、思春期症しよう候こう群ぐんを引き起こしているのではないかと、理央は言っているのだ。  そんな人の無意識を、どうやって変化させればいいというのだろうか。問題があることに気づいてすらいない。問題を問題だと思ってもいない。そうした生徒が、峰みねヶが原はら高校には約千人もいるというのに。  彼らの麻衣への無関心を、関心に変える方法などあるのだろうか。 「……」  あまりにも巨大な暗くら闇やみが、目の前にあるような気がした。  それが悪寒の正体。原因の正体。咲さく太たが倒たおさなければならない、敵と呼ぶべき存在の本当の姿。目には見えないけど、確かにそこに存在している『空気』。戦うなんてバカバカしいと咲太が思っている『空気』だ。 「でも、学校の空気が発ほつ端たんだって言うなら、なんで、学校と接点のない人たちまで、麻衣さんのことが見えなくなったりするんだよ」 「桜さくら島じま先せん輩ぱいが、学校内の空気を外に持ち出したのかもしれない」  最初に咲太が湘しよう南なん台だいの図書館で会ったときや、麻衣がひとりで江えの島しまの水族館に行った頃ころならそういう可能性も否定はできないと思う。麻衣は空気であろうとしていたし、咲太自身も原因は麻衣にあるように感じていたから。  けど、今に限ってそれはない。  麻衣はもう消えたいなどと考えてはいない。それは絶対だと言い切れる。芸能界への復帰を決めたし、昨晩はふざけてはいたけど、  ──今、私が震ふるえながら『消えたくない』って言って、泣き出したらどうする?  と、咲太に聞いてくれた。  ──せっかく、年下の生意気な男の子とも知り合って、学校に行くのも楽しくなってきたのに……  とも言ってくれた。  あれは紛まぎれもない、麻衣の本心だった。 「違ちがったとしても、空気なんて簡単に伝染する」  つまらなそうに理央が言う。 「みんな勝手に空気を読む時代だし、情報は一いつ瞬しゆんで地球の裏側にだって届く。そういうとても便利な時代だよ」  否定の言葉を口にしようと思えばいくらでもできた。理り央おだって、今の説明が穴だらけだということくらい自覚しているだろう。それでも、確かに今はそういう時代だと納得できる部分があった。そういう……便利であると同時に、嫌いやな時代なんだと……。 「……」  だから、咲さく太たは理央に言葉を返すことができなかった。そもそも、この段に至っては、現象が拡かく大だいした理由を論じることに、咲太は意味を感じなかった。目の前にある現実。それがすべてだ。 「話を戻もどすけど……」  咲太の沈ちん黙もくを見て、理央は慎しん重ちように最後の説明を付け足してきた。 「認識と観測がキーになっているのであれば、人の意識が働かない睡すい眠みんが、記き憶おくをなくす切きっ掛かけになっているという考え方は、私なりには納得できるんだよ」  起きているときは、その人のことを考えることができる。見ることができる。けれど、寝ねている間は相手を意識することができない。相手を認識する力が弱まっているとでも言えばいいのだろうか。その結果、意識が途と切ぎれたタイミングで、空気化の現象に吞のみ込こまれてしまう。 「……」  昨晩のことを思い出すと、肝きもが冷えた。もし、あのときに眠ねむっていれば、今の咲太は麻ま衣いのことを忘れてしまっていたかもしれないのだから……。  眠ねむ気け覚ざましのガムを嚙かみながら家に帰ると、咲太は生まれてはじめて栄養ドリンクを飲んだ。ジュースとは明らかに違ちがった奇き妙みような甘み。少し薬っぽい風味が漂ただよう飲み物だった。  決して不味くはない。飲みやすいは飲みやすい。ただ、気分的に味わう気にはなれなかった。  あまり期待していなかった効果の方は、はっきりと体感できるレベルで現れた。目が冴さえて意識がすっきりしてくる。 「お兄ちゃん、何を飲んだんですか?」  キッチンに置いた瓶びんを見て、かえでが首を傾かしげている。そろそろ夜の十一時。普ふ段だんであれば、かえでは寝ねている時間なので、だいぶ眠そうだ。目がとろんとしてきている。それでも、なかなか部屋に戻ろうとしないのは、昨日、咲太が家を空けたことを気にしているからだと思う。  かえで曰いわく、 「昨日のぶんを取り戻すまで今日は寝ません」  とのことだった。  そんなわけで、しばらくはかえでのおしゃべりに付き合った。主に最近読んだ本の話題。  最初こそ、「今日は朝まで寝ません」と意気込んでいたかえでだったが、蓋ふたを開けてみれば十二時前には、猫ねこのなすのと一いつ緒しよにソファで寝てしまった。  お姫ひめ様さま抱だっこで持ち上げて、かえでの部屋に運び込む。無数の本に囲まれた室内。足元には本ほん棚だなに入りきらない小説が、あちこちに積まれている。足の踏ふみ場ばを見つけながらベッドに近づき、咲さく太たはかえでを寝ねかせた。 「おやすみ」  毛布を掛かけて電気を消した。ドアを静かに閉めて外に出る。  咲太はミントタブレットを大量に口に放り込んでから、自室に戻もどった。口とか鼻がすーすーする。  意識がはっきりしているうちに、やっておかなければならないことがある。  机の前に座って、ノートを開いた。別に勉強をしようというわけではない。明日からは中間試験なので、多少はやっておいた方がいいのだが、成績など二の次だ。  今は最悪の事態に備えておく必要があった。  シャーペンの頭をカチカチと二度押おして、咲太はノートに綴つづりはじめた。  この三週間……麻ま衣いと出会ってから今日までの日々の記き憶おくを……。  一晩中、書き続けた。  ──五月六日  野生のバニーガールと出会った。  その正体は、峰みねヶが原はら高校の三年の先せん輩ぱい。あの有名人。『桜さくら島じま麻ま衣い』だ。  これが切きっ掛かけで、これが出会い。忘れられるわけがない。  忘れても絶対に思い出せ。しっかりやれよ。未来の僕ぼく。     4  三日間の日程ではじまった中間試験の初日は、散々な結果だった。  昨晩はまったく勉強をしていなかった上に、徹てつ夜やも二日連続となると、集中力など皆かい無むに等しい。ちゃんと考えようとしても、問題文を読んでいる途と中ちゆうで思考は停止して、頭は真っ白になってしまう。試験用紙を見ているだけ。目に入っているだけという状態。  試験後、咲太は隣となりの教室を覗のぞいて、双ふた葉ば理り央おの姿を捜さがした。教室でも白衣を着ているので、簡単に見つけられる。  理央も咲太に気づいたらしく、帰り支度をして廊ろう下かに出てきた。 「お前、覚えてるか?」  緊きん張ちようしながら、そう聞いた。 「は? なんのこと?」  訝いぶかしげな理央の視線。 「いや、いいんだ」 「そ、私、実験室行くから」 「じゃあな」  軽く手をあげて送り出すと、理り央おは白衣の裾すそを揺ゆらしながら遠ざかっていく。突とつ然ぜん、振ふり向むいて「冗じよう談だんだよ」と言ってくれることを期待したがダメだった。そのまま、理央は階段へと消えた。 「お前の仮説は正しかったわけか」  理央は理央自身が麻ま衣いを忘れることで、そのことを証明したのだ。  これで、残されたのは咲さく太たひとり。  麻衣を覚えていて、麻衣の声が聞こえて、麻衣を見ることができるのは、咲太ひとりだけ。 「すげえ、燃える展開だな」  今はこの逆境を、無理やりでも闘とう志しに変えるしかなかった。  翌日の五月二十八日。中間試験の二日目も、出来栄えの方は芳かんばしくなかった。でも、そんなことをいちいち気にはしていられない。  眠ねむい。とにかく眠かった。  瞬まばたきをするたびに、睡すい魔まの誘ゆう惑わくに負けそうになる。そのまま、目を閉じていたくなる。  デートをした日曜日から一度も寝ねていない。今日は水曜日。徹てつ夜やは四日目に突とつ入にゆうしている。  限界なんてとっくに過ぎていた。  ずっと吐はき気けがしている。実際、二度ほど吐いた。以降、喉のどに何かが引っかかっているような違い和わ感かんがある。  体調は最悪。脈がおかしい。不規則な上、常にどくんどくんと高鳴っている。そのくせ、血色は悪くて、朝の電車が一いつ緒しよになった佑ゆう真まからは、「ゾンビみたいになってんぞ」と、真顔で心配された。  唯ゆい一いつの救いは、試験中ということでバイトのシフトを外しておいたこと。こんな状態で働くのはさすがに無理だ。  とにかくまぶたが重い。目が開かない。太陽の光がしんどい。太ももをつねる程度では、まったく目が覚めなくなっていた。シャーペンを突つき刺さすくらいしないと、刺し激げきとして受け取れなくなっている。 「なんか疲つかれてるけど?」  帰りがけ、麻衣にそう声をかけられた。  麻衣は、咲太にしか見えなくなってしまってからも、毎日学校に来ている。「他にすることないし」と麻衣は言っていたが、胸の内は穏おだやかではなかったと思う。日中、ひとりで家にいるのは不安だろうし、心のどこかでは、「今日学校に行けば、元に戻もどっているかもしれない」という期待だってあったはずだ。 「試験中は、いつもこんな感じですよ。一いち夜や漬づけばっかなんで」 「普ふ段だんからきちんと勉強していないからそういう目に遭あうのよ」 「先生みたいなこと言わないでほしいな」 「咲さく太たがどうしてもって言うなら……」 「ん?」 「勉強、見てあげてもいいわよ」 「麻ま衣いさんと一いつ緒しよの部屋にいたら、エロいことしか考えられなくなるんで、やめときます」 「……」  咲太が断るとは思ってなかったのか、麻衣は露ろ骨こつに驚おどろいた様子だった。 「そ、そう……なら、いいんだけど」 「じゃ、また明日」  マンションの前で麻衣とは別れる。  エレベーターに乗り込むと、咲太は安あん堵どのため息をもらした。今のところ、麻衣に寝ねていないことを話してはいない。話せば、ずっと寝ないなんていう無茶はやめるように言われるに決まっている。  余計な心配はさせたくなかったし、咲太が勝手に決めてやっていることで、麻衣に責任など感じてほしくはなかった。  帰宅後、咲太はリビングで物理の本を開いた。大おお垣がきから戻もどったその日のうちに、理り央おから借りておいたものだ。解決策のヒントでも見つかればと思っている。  量子論を嚙かみ砕くだいて説明している入門編的な内容。けれど、それすらも難易度は高くて、頭に入ってこない。中間試験の勉強をそっちのけで、一昨日から読んでいるのだが、ページをめくる手は重たかった。  徹てつ夜や続きのまぶたに、物理の本は相性が悪い。強きよう烈れつな睡すい眠みん薬やくと同じだ。消えそうな意識を気合で繫つなぎとめて、なんとか説明文を目で追っていく。  麻衣を助けたい。その一心で咲太は動いていた。  一時間ほどしたところで、同じくリビングで読書をしていたかえでがお腹を鳴らした。何も言わずにソファから立ち上がり、咲太は夕食の準備をして、かえでと一いつ緒しよに食べることにした。 「お兄ちゃん、顔色悪いです。大だい丈じよう夫ぶですか?」  テーブルの真向かいでかえでが何かを言っている。それが視界には収まっているのに、咲太は返事を忘れた。 「……」 「お兄ちゃん?」 「あー、ん?」  眠ねむすぎて思考が停止している。 「大だい丈じよう夫ぶですか?」 「今、試験中だから」  言い訳になっているのか自信を持てない。 「無理はしないでください」 「うん、そうだな」  とは言え、無理だろうとなんだろうと、咲さく太たは眠るわけにはいかないのだ。  寝ねたら麻ま衣いを忘れてしまう。  必ずそうなると決まっているわけではないけど、その可能性は極めて高い。  そうである以上、やっぱり咲太は眠ってはいけないのだ。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」  かえでとの夕食が終わると、咲太は散歩がてらコンビニへと出かけた。  食後に座っているのは危ない。立っていても寝そうなくらいなのだ。現に、今日は通学中の江えノ電でんの車内で、吊つり革かわを握にぎったまま寝るところだった。がくっと膝ひざが折れて、前に座ったスーツのおじさんに膝ひざ蹴げりをかましたおかげで、辛かろうじて目を覚ましたが、あれは本当に危なかった。  コンビニでは栄養ドリンクを買った。大盛りの牛丼クラスの値段がする商品。繰くり返かえし飲み続けたせいか、効果は回数を重ねるごとに落ちてきている。そのくせ、反動は大きくて、二、三時間後に猛もう烈れつに眠くなる。それでも、飲まないよりは全然よかった。  財さい布ふをズボンの後ろポケットに差しながら店を出る。  外の風が頰ほおを撫なでる。その途と端たん、咲太の足はつんのめるようにして止まった。  正面に人がいたのだ。  体は悪戯いたずらがばれたときのような焦あせりを感じている。  じんわりと嫌いやな汗あせをかいた。 「何を買ったの?」  そう聞いてきたのは、仁に王おう立だちした私服姿の麻衣だった。  回らない頭で必死に言い訳を探したが、何も思い浮うかばない。極度の睡すい眠みん不足が、頭をバカにしていた。 「あー、えー」  近づいてきた麻衣の手が、コンビニのレジ袋を奪うばっていく。中身を確認すると、 「やっぱり、寝てないんだ」  と核かく心しんを突ついてきた。 「……」  ばれていないと思っていたのは、咲太の勘かん違ちがいだったらしい。今の咲太の体調が悪いことなど、一目見ればわかるはず。佑ゆう真まはおろか、かえでにも指し摘てきされたくらいだ。麻ま衣いが気づいてない方がおかしかった。 「隠かくし通とおせてるとでも思ってた?」 「だったら、いいなとは思ってた」 「バカ。そんなのいつまでも続くわけがないでしょ」 「だとしてもこれしか思いつかなかったんですよ」  ふてくされた子供のような口調になってしまう。  長続きしないことなど百も承知だ。人間、寝ねないで生きていけるわけがない。だいたい、こんなことをしても、何の解決にもならない。無む駄だかもしれないってことはわかっていても、その無駄かもしれないことをするしか咲さく太たには道がなかった。  麻衣を苦しめているわけのわからない現象。それを解決する手段はまだ見つかっていない。解決する方法があるのかどうかも定かじゃない。  それでも、探さなければならない。見つけられるまで咲太は寝るわけにはいかないのだ。  たとえ見つけられなくても、簡単に諦あきらめて眠るつもりはなかった。  一日でも長く麻衣を覚えていたい。一分でも長く麻衣の側にいたい。一秒でも長く、麻衣の孤こ独どくな時間を減らしたいと咲太は思っていた。殆ほとんど働かない徹てつ夜や続きの頭では、そんなことしか考えられなくなっていた。 「青い顔をして、ほんとバカなんだから」 「今回は、僕ぼくもそう思う」 「ほら、帰るわよ」  咲太にレジ袋を突つき返かえして、さっさと麻衣が住んでいるマンションの方へと歩き出す。何も考えずに、咲太はただついていくことにした。  家に戻もどってきたのは午後八時過ぎ。  かえではお風ふ呂ろタイムらしく、洗面所に行くとご機き嫌げんな歌声がドア越しに聞こえた。歌っているのは、家電量販店のCMソング。短い歌なので、何度もループしている。  自室へ入ろうとした咲太だったが、ドア口で一度立ち止まった。  部屋の真ん中に、折おり畳たたみ式しきのテーブルを勝手にセットして、座布団の上に座っている麻衣がいたからだ。 「こんな時間に男子の部屋に上がったら、何をされてもいいって言ってるのと同じなんでしたよね?」 「八時はセーフ」 「ならそれはいいとしても、なんで麻衣さん家までついてきてんの?」 「付き合ってあげる」 「やった、愛の告白だ」 「違ちがうわよ。わかってるでしょ。今夜も寝ねかせないって言ってるの」 「やば、興奮してきた」 「咲さく太たが寝そうになったら、引ひっ叩ぱたいて起こしてあげる」 「うわー、ハードな夜になりそう」  なにやら麻ま衣いは楽しそうだ。一体、何発くらい引っ叩くつもりなのだろうか。変な趣味に目覚めなければいいが……。 「ほら、座りなさい」  麻衣が床の絨じゆう毯たんにぽんと手を置く。  ひとまず、その場所まで移動した。 「教科書とノートは?」 「そんなのどうすんの?」 「明日まで中間試験なんだから勉強よ。見てあげる」 「えー、いいよ」  今勉強なんかしても頭に入りっこない。眠ねむ気けが増すだけだ。 「てか、麻衣さんって勉強できる人?」 「一年生の最初は仕事で学校に行ってなかったからあれだけど、二年生になってからは、成績表に八より小さい数字はないわよ」  峰みねヶが原はら高校の成績は十段階。一が最低で、十が最高の評価。つまり、八より小さい数字がないというのは、とても優秀ということだ。 「意外とガリ勉なんだ」 「ヒマな時間に勉強をしてただけ」 「ヒマだったら普ふ通つうは遊ぶのに」 「いいから、やりなさい。私のことが咲太のすべてじゃないでしょ」 「今は、そのつもりだよ」  そうでなければ、寝ないなどという体当たり作戦を決行したりはしない。 「仮に私のことが解決したとして、このままだと咲太の手元に残るのは、惨さん憺たんたる結果の答案用紙だけになるのよ」 「眠ねむくなるから正論はやめてください」 「いいから、勉強はしなさい」 「やる気が出ません」 「私が家庭教師をしてあげるのに?」 「バニーガールの格好をしてくれたら、やる気が出るかも」 「咲太って誰だれにでもそうなわけ?」 「こんなこと、麻ま衣いさんにしか言わない」 「全然うれしくない」  あくびが出る。目の端はしに滲にじんだ涙なみだが痛いほどに沁しみた。 「だいたい、バニーガールの格好なんてしたら、咲さく太たの脳内はエッチなことばっかりになって、勉強にならないじゃない」 「それは盲もう点てんだった」  殆ほとんど頭は回っていない。思いつきが口から出ているだけになっている。 「じゃあ、そうね……テストで百点が取れたらご褒ほう美びをあげる」  麻衣からの魅力的な提案に、少し体が前のめりになった。 「それって、なんでもしてくれるってやつ?」 「はいはい、してあげる」  どうせ無理だと踏ふんでいるのか、麻衣はあっさりオッケーしてくれた。 「明日は、数Ⅱと現国か」  まずは時間割を確認。わずかにだが目が覚めてきた。 「数Ⅱなら百点取れるかも」 「え? 咲太って頭いいの?」  狼ろう狽ばいした声を麻衣が出す。 「普ふ通つう。理系科目はそこそこいけるけど」  だからこそ、ここは現国を捨てて、数Ⅱ一本で勝負をすべきだ。元々、答えの表現に多少の曖あい昧まいさが含まれる現国は、微び妙みような減点が発生するので百点を狙ねらいにくい。逆に、数Ⅱの場合、答えは明確に存在するし、それを導くための途と中ちゆう式しきさえきちんと書けば、妙みような減点を食らわずに満点を叩たたき出だせる。  早速、数Ⅱの教科書を開いた。  でも、それを麻衣の手が奪うばっていく。 「なんで、勉強しろって言った麻衣さんが僕ぼくの邪じや魔まをするかな」 「なんでもって言っても、本当になんでもしてあげるわけじゃないからね」  口を尖とがらせて、もじもじしていた。 「そんな無茶は言わないって」 「本当でしょうね」 「『一いつ緒しよにお風ふ呂ろ』で我が慢まんする」 「アウトよ、それ」 「えー」 「あ、当たり前でしょ!」 「水着の着用ありでも?」 「お風ふ呂ろで水着って、どうしてそういうマニアックなことを思いつくわけ?」  軽けい蔑べつの眼差しが、ぐさぐさと咲さく太たに突つき刺ささる。これはこれでいい刺し激げきだ。 「なら、バニーガールの衣装で膝ひざ枕まくらをしてもらおう」 「これなら大だい丈じよう夫ぶって顔をして、何を言ってるんだか」  今のは結構本気だったのだが、麻ま衣いは取り合ってくれない。 「こないだできなかった鎌かま倉くらデートをするっていうのは?」  急に大人しい提案にしたせいか、麻衣はきょとんとしていた。 「いいけど……本当にそれでいいの?」 「麻衣さんはもっと過激なやつをご所望かぁ」 「そんなこと言ってない」  麻衣の指が頰ほおに触ふれたかと思うと、思い切りつねってくる。 「あ~、目が覚めるな~」 「……ほんと、年下のくせに生意気なんだから」  それから二時間ほど、咲太は麻衣に付つき添そわれて勉強をすることになった。  ただし、自信のある数Ⅱは却きやつ下かされ、現国の方をみっちりとやらされるはめに……。 「『咲太の未来をホショウしてくれる人は誰だれもいない』の『ホショウ』と、『咲太の老後には何のホショウもない』の『ホショウ』をそれぞれ漢字にしなさい」 「先生、問題文に悪意を感じます」 「いいから書いて」  とんとんと麻衣が咲太の前に置かれたノートを指で小こ突づく。  とりあえず、『保障』と『保証』のふたつを書いた。 「『咲太の未来をホショウしてくれる人は誰もいない』の『ホショウ』はどっち?」 「それは……」  区別がついていなかったので、それとなく『保障』の方へ指を動かしつつ、咲太は麻衣の様子を窺うかがった。視線と表情の変化から、どっちが正解かを読み取ろうと思ったのだ。  けれど、そのズルはあっさり麻衣に見破られてしまう。  ばっちり目が合うと、とてもやさしい笑みを浮うかべてきた。ちゃんと目も笑っているからなおのこと恐おそろしい。 「『姑こ息そくなカンニングをする咲太の安全はホショウできない』の『ホショウ』でもいいわよ」 「すいません。ヒントをください」 「『証』の方は請け負うって意味で、『障』の方は守るっていうような意味」 「ということは、『麻衣さんの幸せな未来は僕が保証します』は『保証』で、『ふたりの将来には充じゆう実じつした保障がある』は『保障』ってこと?」 「勝手に問題文を変えないの」  丸めた教科書で軽く頭を叩はたかれた。 「そういうとこ、かわいくない」  どうやら答えは正しかったようだ。同じ問題が出れば、たぶん、ちゃんと答えられると思う。今のふてくされたような麻ま衣いの表情と一いつ緒しよに、しっかり記き憶おくした。  その後も、麻衣は似たような問題をいくつも出題してきて、咲さく太たはゲーム感覚で漢字の勉強に勤しむことができた。  とは言え、さすがにいつかは集中力も切れる。  同音異義語の問題が一段落したところで、 「お茶淹れてきます」  と言って、咲太は立ち上がった。 「コーヒーでいいですか? インスタントだけど」 「うん」  麻衣はぱらぱらと漢字問題集をめくっている。次に咲太に出す問題を物色中らしい。  咲太は部屋に麻衣を残し、キッチンにやってくると、ポットでお湯を沸わかした。  待っている間に、かえでの部屋の様子に目をやる。電気は消えているのでもう寝ねたようだ。  インスタントコーヒーを入れたマグカップをふたつ持って自室へと戻もどる。  ひとつを麻衣の前に置くと、 「お砂糖とミルクは?」  と、聞かれた。  眠ねむ気け覚ざましが目的の咲太は、ブラックでいただくつもりだったのですっかり忘れていた。 「今、持ってきます」  再び部屋を出てスティックシュガーとミルク、スプーンを用意する。  戻ると、麻衣は相変わらず漢字問題集を眺ながめていた。 「麻衣さん、これ」 「ありがと」  受け取った砂糖とミルクを麻衣がマグカップに落とす。スプーンでゆっくりとかき回していた。  そのひとつひとつの女の子らしい仕草を堪たん能のうしつつ、咲太はコーヒーに口を付けた。黒くて苦い液えき体たいが胃の中に落ちていく。その熱さが、ほっとした気持ちにしてくれる。 「妹さんは?」 「もう寝ねたみたいです」  一時間ほど前に一度咲太の部屋にやってきたのだが、咲太が勉強しているのだとわかると、「がんばってください」とだけ言って出て行ったのだ。 「麻衣さんは一人っ子?」  なんとなくそう思い込んでいた。 「妹がいる」  マグカップを麻ま衣いは両手で口元に持っていく。 「あ、そうなの?」 「あの母親と離り婚こんした父親がいて……その父親が再婚してから生まれた子だから、半分だけだけど」 「かわいいですか?」 「私ほどじゃない」  当たり前だと言わんばかりに、麻衣は即答した。 「うわー、大人げねー」  そんな話をしていると、なんだか頭が急にぼんやりしてきた。  少しくらくらする。まぶたもやたらと重い。 「自分の方がかわいいって自覚があるくせに、別の誰だれかのことを『かわいい~』とか言ってる女が、咲さく太たは好きなの?」 「それ、嫌きらいなタイプ」 「でしょ?」 「だからって、妹さんまで……」  意識的に止めたわけではないのに、言葉が最後まで続かない。  だんだんと感覚が体から遠のいていく。  まずいと思っても止められない。  体を支えるために、テーブルの縁ふちを摑つかんだ。  もう目は半分も開いていない。 「よかった。ちゃんと効いたみたいね」  顔を上げると、麻衣の複雑な表情が狭せまい視界の中に入った。やさしい眼差しで咲太を見ている。でも、その奥おくには確かな不安が宿り、目尻には心細さが滲にじんでいた。 「麻衣さん……なにを……」  細くて綺き麗れいな麻衣の指が何かを握にぎっている。  小さな瓶びん。ラベルには睡すい眠みん導どう入にゆう剤ざいと書いてある。 「なんで……」  声に力が入らない。 「咲太はよくがんばったわ」 「僕ぼくはまだ……」  体を起こそうにも力が抜ぬけていく。 「私のためにがんばってくれた」 「……違ちがう」 「だから、もう十分。もういいから」  麻ま衣いの手が伸びてきて、そっと咲さく太たの頰ほおを撫なでる。あたたかくて、心地よい感覚。くすぐったくて、ぞくぞくもした。けれど、その感かん触しよくも体から遠のいていってしまう。 「よく……ない……」  ちゃんとしゃべれている自覚はなかった。 「元々、私はひとりだったんだから大だい丈じよう夫ぶよ。咲太に忘れられるくらいなんでもない」  麻衣の輪りん郭かくがぼやけていく。なおも、麻衣の手は頰に添そえられたままだ。指先が耳の下をなぞっていく。 「それでも、今日までありがとう」  お礼を言われるようなことはまだ何もしていない。 「それと、ごめんね」  謝ってもらうようなことだってなにひとつとしてない。 「もうゆっくり休んで……」  やさしい声に導かれて、咲太はついに目を閉じた。意識は一いつ瞬しゆんにして、心地よい眠ねむりへと落ちていく。 「おやすみ、咲太」  深く深くへと沈しずんでいった……。  大丈夫。  今はまだ辛つらくて悲しい気持ちがあるかもしれないけど……  朝になれば、その気持ちも私の記き憶おくごと全部忘れていると思うから。  何も心配しないで、ゆっくり眠って。  この三週間、とても楽しかった。  さよなら、咲太。     1  体が揺ゆれている。  ゆさゆさと誰だれかに揺すられている。 「……ちゃん」  遠くの方から声が聞こえた。 「……です」  次第に近くなってくる。 「……お兄ちゃん」  聞き覚えのある声。 「お兄ちゃん、朝です」  真っ暗だった世界に、白い光が差していく。 「……ん?」  意識が覚かく醒せいすると共に、咲さく太たはゆっくりと目を開いた。  寝ねぼけてぼやけた視界の中には、ベッドに身を乗り出して覗のぞき込こんでくるかえでの顔があった。中ちゆう途と半はん端ぱに開いたカーテンの隙すき間まから差し込む光が目に痛い。 「今日まで試験ですよね? 遅ち刻こくします」  さらに、ゆさゆさとかえでが体を揺すってくる。 「ああ、うん、そうだ。中間……ふあ~」  あくびを嚙かみ殺ころしながら、咲太は上半身を起こした。  全身がだるい。風か邪ぜの引きはじめのような感じ。ぼんやりと熱を持っている。けれど、具合が悪いと言うよりは、とても疲つかれているだけ……と表現した方が正しい気がした。  二に度ど寝ねしたい気持ちを押おし殺ころして、咲太は疲ひ労ろう感かんに抗あらがいながらベッドを抜ぬけ出だした。中間試験があるのに欠席や遅刻はまずい。追試になれば何かと面めん倒どうだ。  時計は七時四十五分を示している。学校までは、まず藤ふじ沢さわ駅まで徒歩で十分。そこから電車に揺られること約十五分。七しち里りヶが浜はま駅で下車してから教室までは五分といったところだ。だいたい三十分はかかる。  八時には家を出ないといけないので、あまり時間はなかった。 「助かったよ、かえで。起こしてくれて、ありがと」 「お兄ちゃんを起こすことは、かえでの生いき甲が斐いですから」  かわいらしくにっこりと微ほほ笑えんでいるが、素直に褒ほめる気にはなれない。 「かえではもっと他に人生の潤うるおいを見つけた方がいいぞ」 「お兄ちゃんのお背中を流すとかですか?」 「僕ぼく以外のことでだ」 「いやです」  真顔で拒きよ否ひされてしまう。 「兄としては、妹の将来が心配だよ」  そんなことを言いながら、咲さく太たは着き替がえるためにクローゼットを開けた。  制服のYシャツをハンガーから外す。その際、手が滑すべってしまい、Yシャツは下にあった紙袋の上にかぶさるように落ちた。 「なんだっけ、これ」  Yシャツを拾いながら、紙袋の中身を覗のぞき込こむ。  横からかえでも顔を突き出してきた。  ふたりの視線が中にあるものを同時に捉とらえる。 「……」 「……」  短い沈ちん黙もくが部屋を満たした。 「お兄ちゃん、こ、これはなんですか?」  紙袋の中身を指差し、かえでは動どう揺ようして声を震ふるわせている。  それは咲太も聞きたかった。  お尻しりのところに白いボンボンがついた黒のレオタード。同じく黒のストッキングにハイヒール。さらには蝶ちようネクタイ。白のカフス。そして、それらをまとめる象しよう徴ちよう的てきなウサ耳のヘアバンドが紙袋からは出てきたのだ。  どこからどう見てもバニーガールの衣装。 「かえでに着せようと思ったのかな」  可能性はそれくらいしかない。 「え?」  驚おどろいて硬こう直ちよくしたかえでの頭に、とりあえずヘアバンドだけ装着してみた。 「うん、悪くない」 「き、着ません! こういうセクシー路線の服は、かえでにはまだ早いです!」  危機を察知したかえでは、そそくさと部屋から逃にげ出だしていく。  朝から、嫌いやがる妹を追い回す趣味もないので、咲太は衣装を紙袋に戻もどした。元々置かれていたクローゼットの中にしまっておく。 「ストレス溜たまってんのか、僕は」  Yシャツの袖そでに腕うでを突つっ込こんでボタンを閉じる。制服のズボンを穿はいて、ネクタイは適当に締しめた。少し曲がっている。 「……」  いつもは気にせずに出かけている。けど、どういうわけか、今日は直そうという気になった。解いてから締しめ直なおす。今度は真っ直ぐ。  ブレザーを羽は織おる前に、鞄かばんに教科書を放り込む。机の上に置かれたノートが目に留まり、咲さく太たは手に取ってみた。 「これ、なんだっけ」  ぱらっとページをめくる。つらつらと文章が書かれていた。  現国のノートかと思ったが、よく見ると違ちがうとわかる。  冒頭に注意書きの文言がまずあって、中身は日記のような内容になっていた。  ──この先に記されていることは、正直、信じられないようなことだと思うけど、全部本当のことなので、必ず最後まで読むように。必ずだ!  ──五月六日  野生のバニーガールと出会った。  その正体は、峰みねヶが原はら高校の三年の先せん輩ぱい。あの有名人。『    』だ。  これが切きっ掛かけで、これが出会い。忘れられるわけがない。  忘れても絶対に思い出せ。しっかりやれよ。未来の僕ぼく。  これは反応に困る。 「僕の黒歴史というやつか」  多感な思春期。色々な気の迷いから変な妄もう想そうを膨ふくらませることもあるのだろう。なんでこんなものを書いたのかは覚えていないが、筆ひつ跡せきは確かに咲太のもの。自分の字だということは疑いの余地がない。となれば、やはり咲太が書いたものなのだ。  しかし、見れば見るほどに痛々しい。  その後も、空想の彼女らしき人物についての記述が延々と続いている。ページにしてノート一冊分。駅のホームで話したこと。江えノ電でんの中で交わした言葉。デートをしたり、一いつ緒しよに大おお垣がきという街にも行ったことになっている。  数日前、確かに咲太は大垣に行ったが、それはあの日突とつ然ぜん、「ここではないどこかへ行きたくなった」から、電車に飛び乗ったのであって、残念ながらひとり旅だった。 「……」  ただ、気になるのは所々にある空くう欄らん。誰だれかの名前を当てはめればしっくりくるような文章の途と中ちゆうに、ぽっかりと穴が開いている。四文字か、五文字分だろうか。 「彼女ができたら、埋うめろってことか?」  ますます痛々しい。これは、間ま違ちがっても他人の目に触ふれるようなことがあってはならない。早めに処分した方がよさそうだ。  はっきり言って、人生の汚お点てんと言っていいレベルの代物。  時折、自分自身に語りかけるような文章が混ざっていて、それがなおのこと痛々しかった。全身が恥はずかしさで痒かゆくなる。  時計が八時を知らせる時報をぴぴっと鳴らし、咲さく太たは急いでいたことを思い出した。  ノートをゴミ箱に放り込み、ブレザーを羽は織おって鞄かばんを摑つかむと、 「いってきます」  と、かえでに告げて、咲太は学校へと向かった。     2  駅まで約十分の道を、咲太は少し急いで歩いた。  住宅街を通とおり抜ぬけ、橋を一本渡わたって大通りへ出る。いくつか信号に捕つかまりながら、駅近くの繁はん華か街がいへと足を踏ふみ入いれた。パチンコ店や家電量販店の建物を脇わきに眺ながめているうちに、駅の看板が見えてくる。  朝の藤ふじ沢さわ駅はいつも通りの雰ふん囲い気きだった。この時間帯は、通勤通学のサラリーマンと学生たちが、いくつかの流れを作っている。駅から出てオフィスに向かう人。乗のり換かえ電車のホームに向かう人。咲太は連れん絡らく通路を通って、江えノ電でんの藤沢駅へと急ぐ人の一員だ。  咲太が改札口を抜けたとき、普段使っている出発時刻の電車はまだホームにいた。息を整えながら、一番前の車両に乗り込む。  奥おく側がわのドア脇に立つと、近づいてきた人物に声をかけられた。 「よっ」  軽く手を挙げて挨あい拶さつをしてきたのは国くに見み佑ゆう真まだ。 「おう」  電車が走り出すと、吊つり革かわに両手で摑まった佑真が、咲太の顔をまじまじと観察してきた。 「今日はだいぶ顔色いいな」 「ん?」 「昨日までゾンビみたいな顔してたろ? 咲太って試験前に一いち夜や漬づけとかするタイプだったっけ?」 「いや、諦あきらめてさっさと寝るタイプ」 「だよな」  昨日も割と早く寝たはずだ。夜の九時だか、十時ぐらいまでしか記き憶おくがない。テスト前だというのに、普ふ段だんより早く寝ている。  何気なく電車内に目を向けると、峰みねヶが原はら高校の制服を何人も見つけることができた。中間試験の結果を一点でも上げるために、教科書を開いている生徒がたくさんいる。  佑ゆう真まも鞄かばんから数学の教科書を引っ張り出すと、公式のおさらいをしていた。  ちょいちょい佑真の勉強の邪じや魔まをしているうちに、電車は腰こし越ごえ駅を過ぎて、窓の外には海が広がった。  すると、誰だれかに見られているような感覚に捉とらわれる。 「……」  気になって、咲さく太たはそれとなく振ふり向むいた。 「どした?」  咲太の行動を不思議に思ったのか、佑真が怪け訝げんそうな顔を向けてくる。 「いや、視線を感じたっていうか」  言っている途と中ちゆうで、ひとつ隣となりのドアの前に立った女子生徒と目が合った。まだ初々しさの漂ただよう峰みねヶが原はら高校の新しい制服。古こ賀が朋とも絵えだ。 「ん、あの子? 一年生だろ?」  朋絵が露ろ骨こつに視線を逸そらしたので、佑真もわかったらしい。 「国くに見みも知ってるのか?」 「よくバスケ部の練習を、隣にいる友達と一いつ緒しよに見に来てるよ」  朋絵の横には、見覚えのある一年生が確かにいた。 「あのふたり、結構かわいいって部員の中じゃ、評判いいんだよね」 「なるほど、つまりお前を見てたのか」  勘かん違ちがいした自分が猛もう烈れつに情けなくて恥はずかしい。 「いや、それはないと思うけど」  佑真は教科書に意識を戻もどしている。 「なんで?」 「練習見に来るお目当ては、三年の先せん輩ぱいっぽいし」 「ふ~ん」 「それよか、クラスメイトの名前もちゃんと憶おぼえてない咲太が、一年のこと知ってるとか珍めずらしいな? なんかあったわけ?」 「ちょっとな」 「お、意味深。教えろよ」  勉強を放ほう棄きした佑真が、にやけながら肩かたをぶつけてくる。 「単に尻しりを蹴けり合あった仲というだけで、何もない」  あれはこの前の日曜日。迷子の女の子をめぐり、おかしな誤解が生じて、おかしな展開に発展してしまったのだ。 「尻を蹴り合っただけで、十分異様な関係だろ……」 「そういうこともあるって」 「今んとこ、俺おれの人生にはないんだけど……咲さく太たはどこへ行こうとしてるわけ?」 「ここではないどこか、かな」 「なんだそりゃ」  話は終わりだという合図のつもりで、咲太は窓の外に視線を戻もどした。  何かが心に引っかかっている。  古こ賀が朋とも絵えとの出会いに関してはいい。けれど、そこへたどり着くまでの経けい緯いを、咲太はなぜだか思い出せていなかった。  七しち里りヶが浜はま駅に電車が到とう着ちやくすると、峰みねヶが原はら高校の制服を着た生徒たちが、ぞろぞろと小さなホームに降りていく。  咲太もその一部だ。  潮しおの香かおりを感じながら、校門までの短い道を佑ゆう真まと並んで歩いた。  周囲からは、「試験、やべえ」とか、「全然勉強してない」とか、「え~、私も~」とか、「ああいうやつに限って、やってんだよな」とか、友人同士のおしゃべりが聞こえてくる。  全校生徒にとって、試験という共通の問題が立ちはだかってはいるが、それを除のぞけばいつも通りの通学風景だ。  日常の景色。  毎日のように繰くり返かえされている似たようなやり取り。  特別楽しいことはないけど、嫌いやになるほど面めん倒どうなこともない。  みんながそれなりにやっている。  そんな『普ふ通つう』が咲太の目の前にはあった。  ふたり組の一年生が咲太と佑真を小走りで追おい抜ぬいていく。古賀朋絵とその友達の女子。試験が終わったあとの打ち上げについて、カラオケがどうとか相談している様子だった。 「咲太は? 試験後予定あんの?」 「バイト。国くに見みは?」 「部活。大会も近いしな」 「そうか、それはよかった」 「ん? なにが?」 「デートとか言われたらむかつくだろ」 「それは週末のお楽しみ」 「国見って、ほんとやなやつだよなあ」 「それを口に出す咲太もな」 「思ってるだけのやつよりはいいだろ」  軽口を叩たたき合あっているうちに、咲さく太たと佑ゆう真まは昇しよう降こう口ぐちにたどり着いていた。  下げ駄た箱ばこから上うわ履ばきを出して履はき替かえ、二年の教室がある二階へと上がる。  クラスが違ちがう佑真とは廊下で別れて、咲太はひとり二年一組の教室に入った。  窓際の一番前の席に座る。  今日の試験は一時間目が数Ⅱで、二時間目が現国。  焦あせった様子で最後の悪あがきをするクラスメイトもいれば、入念にノートを見直して試験に備えるクラスメイトもいる。中には諦あきらめて寝ねているやつも。斜ななめ後ろの席に座った上かみ里さと沙さ希きに至っては、朝からポッキーをぱくついている。試験に備えて脳に糖分を回しているのだろうか。  なぜだかむず痒かゆくなってきた鼻を気にしながら、咲太は一応教科書を出した。 「風か邪ぜでも引いたかな」  ポケットティッシュで鼻をかみつつ、高次方程式の例題を目で追う。  なんとなくいい点を取らないといけないような気がしていた。  一通り例題を眺ながめ終わったところで、急に手元が暗くなった。  誰だれかが正面に立ったせいだ。  顔を上げなくても相手の名前はわかる。制服のスカートよりも長い白衣の裾すそが、教科書を見ながらでも、ちらついて見えていた。 「双ふた葉ばの方から僕ぼくに会いにくるなんて珍めずらしいな」 「これ」  どこか面めん倒どうくさそうに理央が差し出してきたのは洋式の封筒。 「ラブなレター?」 「違うよ」 「だよな」  理央の想い人が誰かを咲太は知っている。  とりあえず、受け取って咲太は中を覗のぞいた。当然というか、手紙が入っている。読んでもいいのか、一応目で理央に確認した。 「……」  無言で理央が頷うなずくのを待ってから、咲太は手紙を開いてざっと目を通した。  ──これは、観測理論の荒こう唐とう無む稽けいで空想科学的な拡かく大だい解かい釈しやくだけど、あらゆる物質は誰かに観測されることで、この世界に物質としての形が確定すると仮定する。その場合、『    』の消滅が、全校生徒の無自覚な無視に起因するのであれば、それを上回る存在理由を梓あずさ川がわが作り出せれば『    』を助けることは可能かもしれない。要は、見たくないものに蓋ふたをして、『    』を形が確定する前の確率であり波の状態……すなわち、存在が定義づけられる前の空気のような姿に戻もどして、最初から存在していなかったことにした全校生徒の無意識を、梓あずさ川がわの愛が上回ればいいという話だよ  所々に奇き妙みような空白のある怪あやしい手紙。内容はさっぱり理解不能。ただ、理り央おが咲さく太たに宛あてたものだということだけは間ま違ちがいなさそうだ。 「……」  理央に目で説明を求める。 「私にもわかんない。数Ⅱの教科書に挟はさまってて、昨晩気づいた」 「なんだそりゃ」  すると、理央はもう一通、同じ封筒を咲太の机の上に置いた。 「これも、一いつ緒しよに挟まってた」  わけなどわからないままに、咲太は二通目の手紙に目を通す。  書かれていたのは短い一文。  ──何も考えずに、手紙を梓川に渡わたせ  理央が理央自身に宛てたと思われる文面。  似たようなものを咲太は今朝自室で見たことを思い出していた。あの妄もう想そうノート。  何かが頭に引っかかった。その何かは思い出せない。もやもやとした気分だけが体中に広がっていく。 「とにかく渡したよ」  理央はそれだけ言うと、教室を出て行こうとする。 「あ、おい」  呼び止めた声とチャイムが重なり、この場は一いつ旦たん諦あきらめるしかなかった。  担任の教師が教室に入ってきて、HRがはじまった。 「今日で、中間試験も終わりだが、終わったからと言ってあまりはめを外さないようにな」  気の早い担任の忠告を聞きながら、咲太は理央から受け取った手紙に今一度目を通した。  ──これは、観測理論の荒こう唐とう無む稽けいで空想科学的な拡かく大だい解かい釈しやくだけど、あらゆる物質は誰だれかに観測されることで、この世界に物質としての形が確定すると仮定する。その場合、『    』の消滅が、全校生徒の無自覚な無視に起因するのであれば、それを上回る存在理由を梓川が作り出せれば『    』を助けることは可能かもしれない。要は、見たくないものに蓋ふたをして、『    』を形が確定する前の確率であり波の状態……すなわち、存在が定義づけられる前の空気のような姿に戻して、最初から存在していなかったことにした全校生徒の無意識を、梓川の愛が上回ればいいという話だよ 「……愛ねえ」  けれど、やっぱり意味などわからなかった。     3  一時間目の数Ⅱの試験は、まあまあの手応えがあった。  解かい答とう欄らんはすべて埋うめたし、丁てい寧ねいに途と中ちゆう式しきも書いた。なんとなくそうしないといけないような気がしたのだ。  普ふ段だんは面めん倒どうでやらない見直しもしたので、高得点が期待できると思う。  二時間目は現国の試験。  チャイムを合図に、クラスメイトたちが一いつ斉せいに問題と答案用紙をめくる。続けて、カリカリとシャーペンを走らせる音が教室に響ひびいた。  クラスと出席番号、それと名前を記入する。それから、咲さく太たは問題に目を向けた。まずは長文。出題文を先に確認してから、本文に目を通していく。  二十分ほどかけて最初の砦とりでを攻略。  次も同じく長文問題。こちらは教科書には載のっていないやつだ。  時間がかかりそうだったので、咲太は先に一番後ろにある漢字の書き取りをやっつけることにした。  紛まぎらわしい同音異義語。  一、彼のホショウ人になる  二、国の安全をホショウする  カタカナを漢字にしなければならない。  咲太は迷うことなく、一の解答欄に『保証』と書き、二の解答欄を『保障』で埋うめた。 「……」  書き終えた段階で、咲太の持つシャーペンは迷いを感じて止まった。  試験問題とは別の疑問が脳内に生じていたのだ。  今の問いがあっさりわかったのは、昨日勉強をしたから。  けれど、そのときの状じよう況きようがよく思い出せない。  すっきりとしない違い和わ感かんが頭から体に伝わっていく。次第に不快感へと変わった。思い出せそうで思い出せない。そういう気持ちの悪さ。喉のど元もとまで出てきているのに、その先が続かない。  考えれば考えるほど、落ち着かない気持ちが強くなっていた。内側から何かを訴うつたえかけてくる感情があることに気づく。 「……なんだこれ」  本当になんなのだろうか。この感覚は……。  胸の中にうれしい気持ちがあった。  悲しい想いも見つけた。  楽しい気分もあった。  それなのに、強きよう烈れつな切なさも込み上げてくる。  いくつもの感情たちが、咲さく太たの心を搔かき乱みだしては消えていった。そして、また帰ってくる。寄せては返す波のように、咲太を揺ゆさぶり続けた。  すると、突とつ然ぜん答案用紙の上にぼたりと何かが落ちた。  鼻水でも垂らしたのかと思ったが違ちがっていた。  それは咲太の目から落ちたもの。  涙なみだ。  慌あわてて顔を上げた。試験中にいきなり泣き出すとかどうかしている。  鼻をすすって堪こらえようとした瞬しゆん間かん、誰だれかの声が脳裏を過よぎった。  ──『咲太の未来をホショウしてくれる人は誰もいない』の『ホショウ』はどっち?  知っている声。  ──『姑こ息そくなカンニングをする咲太の安全はホショウできない』の『ホショウ』でもいいわよ  頭の中でもやもやが徐じよ々じよに晴れていく。  ──『証』の方は請け負うって意味で、『障』の方は守るっていうような意味  そう教えられた通り、きちんと解かい答とう欄らんを埋うめることができた。  咲太の指からシャーペンが転がり落ちる。  今は、試験など受けている場合じゃないと思った。  その感情に体が反応して、咲太は勢いよく立ち上がる。完全に無自覚だった。 「うおっ」  後ろの席のクラスメイトが身を引いて驚おどろいている。隣となりの女子は、「きゃっ」と悲鳴を上げていた。  クラスの全員が試験の手を止めて、咲太を見ていた。  教室の後ろにいた試験監かん督とくの教師も困こん惑わくの表情を咲太に向けている。 「おい、梓あずさ川がわ、どうした?」 「大の方です」  咲太がそう言うと、教室内は失笑に包まれた。 「こら、お前ら、集中してやれ」  監督教師の注意が逸それているうちに、咲太は堂々と歩いて廊ろう下かに出た。  トイレの前を通り過ぎて階段を下りる。  昇しよう降こう口ぐちまで行くのは面めん倒どうだったので、一階の廊下の窓から咲太は外に足を下ろした。  大事なことを思い出していた。  大切な人の記き憶おくがよみがえっていた。  彼女のために、やらなければならないことがある。 「あ~あ、ほんと最悪だ……」  自然と本音がもれていた。  目の前に広がっているのは峰みねヶが原はら高校のグラウンド。その中心へと、咲さく太たは一歩ずつ確かめるように歩みを進めていく。 「……我ながら、バカげたことを思いついたもんだよな」  切きっ掛かけは理り央おがくれた手紙。  最後の一文だ。  ──全校生徒の無意識を、梓あずさ川がわの愛が上回ればいいという話だよ  今からやろうとしていることが、正解かどうかは、やってみなければわからない。  はっきり言って分の悪い戦いになるだろう。なんたって、これから咲太が相手にするのは『空気』なのだ。  押おしても引いても、叩たたいても手応えなんて何もないあの『空気』。学校を取り巻く『空気』だ。そんなものと戦うなんて、まっぴらごめんだと今でも思っている。  その『空気』を作っている側に、自分が関係者だという自覚はまったくない。  当事者意識のない生徒たちに対して、どれだけ熱弁をふるったところで、心に響ひびきはしないだろう。  どうせ、必死な姿を笑われるだけだ。  熱くなっているのを冷やかされるだけだ。 「空気読めよ」と、自分の言葉ですらないテンプレの感想で片付けられるだけだ。  そういう世の中だし、咲太もそういう世の中の一部であることは自覚している。  右に倣ならえの生き方は楽でいい。いいこと、悪いことの判断を全部自分でするのはカロリーを使うし、自分の意見を持つと、否定されたときに傷つくことになる。その点、『みんな』と一いつ緒しよであれば、安心、安全でいられる。見たくもないものを見ずにいられる。考えたくもないことを、考えずにいられる。全部他ひ人と事ごとで済ませられる。  世の中なんてその程度に薄はく情じようだ。  無自覚に人を孤こ立りつさせ、孤立した人間に背を向けられるくらい薄情にできている。空気を守って、自分を守るために、見て見ぬふりだって平気でできる。それで誰だれかが傷ついても知らん顔だ。  それを暗あん黙もくの了解にして、何の痛みも感じずに他人を傷付けられるくらいに、世の中は薄情なのだ。  でも、『みんながそうしているからそうしよう』なんていう他人事気分で、誰かを苦しめていいなんて理り屈くつはない。『みんながそうしているから、それが正しい』とも限らない。だいたい、『みんな』とは誰だれだ。  あの日、湘しよう南なん台だいの図書館で彼女と出会わなければ、咲さく太たも正体不明の『みんな』の一部であり続けた。咲太も彼女を苦しめた原因の一部だった。  それに気づいた以上、けじめはつけなければならない。  たとえ、敵が学校そのものであっても。  全校生徒が相手であっても。  一番戦いたくない『空気』であったとしても、咲太は目を背けるわけにはいかないのだ。  今を維い持じすることよりも大切なものを見つけてしまったから。  彼女と過ごした時間はとにかく楽しかった。  いつも、咲太を年下扱あつかいでからかってきた彼女。でも、お色気ネタで自じ爆ばくして、顔を真っ赤にしていた彼女。その失敗を隠かくそうとして、意地になって強がっていた彼女。  咲太が思い通りにならないと子供のようにふてくされていた彼女だ。  わがままで、女王様で、気分屋で、そのくせ、意外とウブだったひとつ上の先せん輩ぱい。足を踏ふまれたり、頰ほおをつねられたり、引ひっ叩ぱたかれたこともあった。  そんな彼女に振ふり回まわされる日々は最高だった。時々、反はん撃げきして、拗すねたような顔で、「生意気」と言われるのは、うれしくて楽しくて、とにかくたまらなかった。  咲太をこんな気持ちにしてくれるのは彼女しかいない。  この世界でたったひとりだけの特別な存在。  その喜びを知った今、彼女なしでは生きていても張り合いがない。  だからこそ、どんな手段を使っても、あの楽しかった時間を取とり戻もどす。  これはそのために必要な行動。  牧まき之の原はら翔しよう子このときのように、何も言えないままお別れなんて、二度とごめんだった。  あんな想いはしたくない。 「もう、空気なんて読んでやるか、バカバカしい」  グラウンドの真ん中に来ると、咲太はゆっくりと校舎の方へと振り向いた。  真正面から三階建ての建物と対たい峙じする。  全校生徒は約千人。  大きさも数も、圧あつ倒とう的てきに向こうが上。しかも、なにをしたところで、スルーされたらおしまいだ。  作戦なんて何もない。  ただ、腹だけは決まっていた。  ぐだぐだと面めん倒どうくさいことを考えるのはもうやめだ。  思ったままにやればいい。  感じたままにやればいい。  散々並べ立てた理由や言い訳なんてくそくらえだった。  咲さく太たはぐっと両足を踏ふん張ばる。  息を大きく吸い込んで、下腹に力を溜ためた。  それから、ありったけの大声で、 「お前ら、よく聞けーっ!」  と、戦いの狼煙のろしを上げた。 「二年一組のっ!」  試験中の静かな学校に、咲太の声が反はん響きようしていく。 「出席番号一番っ!」  喉のどが震ふるえて早くも痛い。だが、やめるつもりはなかった。  最初に反応したのは、職員室の窓。三名ほどの教師が続けて顔を出した。戻もどってこいと、手でジェスチャーをしていたが、咲太は無視して続けた。 「梓あずさ川がわ咲太はっ!」  試験中の校舎が次第にざわめきに包まれていく。 「三年一組のっ!」  誰だれかが「グラウンドだ」と言った気がした。  すると、教室の窓が次々に開き、多くの生徒が視線を向けてくる。 「桜さくら島じま麻ま衣い先せん輩ぱいのことがっ!」  名前を口に出すと、全身に鳥とり肌はだが立った。体中の毛穴から感情が噴ふき出だしていく。バラバラだったピースが、一いつ瞬しゆんにしてひとつにまとまっていく心地よさがあった。麻衣に対する想いを、この瞬しゆん間かんに咲太は確かなものにしていた。  一度、大きく息を吐はく。全部を絞しぼり出だして、それから、一気に吸い込んだ。校舎を見ると、教室の窓という窓に、生徒たちが群がっていて、グラウンドの咲太に注目していた。  約千人の視線を一心に浴びながら、咲太は気持ちを爆ばく発はつさせた。 「桜島麻衣先輩のことが、好きだ!」  想いのすべてを校舎に叩たたき付つける。 「麻衣さん、好きだあー!」  喉が張はり裂さけんばかりに……この街に住む全員に、もっと遠くの人たちにも聞こえるようにと願いながら、咲太は大切な想いを告白した。  無視なんかできないように。  見て見ぬふりなどさせないように。  ありったけの想いを吐き出した。  息が続かなくなって、げほっげほっと無様に咳せき込こむ。  最初に訪れたのは、困こん惑わくの気配を漂ただよわせた長い沈ちん黙もく。  次に疑問の声が囁ささやかれるようになり、ざわざわした空気になった。  全校生徒の視線が、グラウンドの中央にいる咲さく太たへと向けられている。一個に集合した視線は、巨大なハンマーとなって、咲太の全身に押おし付つけられていた。ただし、強きよう烈れつな一いち撃げきではなく、生殺しの中ちゆう途と半はん端ぱな威い力りよく。ぐりぐりと、じわじわとなぶられる嫌いやな感じだ。  今すぐに逃にげ出だしたい。校門から出て帰りたい。  渾こん身しんの告白も空から振ぶりに終わっている。 「あ~、くそ! やっぱり、こうなるのか。これじゃ、恥はじのかき損ぞんだな。ったく、なんだよ」  次から次へと悪態の言葉を継つぐ。 「これだから、空気なんかと戦いたくなかったんだ」  視線を浴びながら、咲太は頭をがりがりと搔かき毟むしった。 「ほんと、最悪だな、この展開は……」  やめて帰ろうかという考えが頭を過よぎり、校門を視界に収める。 「……」  けれども、そこから足は一歩たりとも外へは動かなかった。 「ここまでやったんだ。麻ま衣いさんにご褒ほう美びをもらわないと割に合わないだろ」  咲太は半ばやけになって校舎と向き合うと、再び大きな声で叫さけんだ。 「手ぇ繫つないで、七しち里りヶが浜はまの砂浜を一いつ緒しよに歩きたい!」  考えなんて何もない。 「バニーガールの格好だってもう一度見たい!」  感情に任せて、想いを綴つづるだけだ。 「ぎゅって抱だき締しめてみたいし! キスだってしたいんだ!」  自分でも何を言っているのか、わけがわからなくなっていた。 「要するにさあ! 麻衣さん、大好きだあああー!」  叫さけび声ごえが大空へと広がっていく。全校生徒と全職員に注目をされて、この上なく最悪な気分ではあったけど、この瞬しゆん間かんだけは爽そう快かいな気持ちに咲太はなっていた。  やがて、周囲はしんと静まり返った。  まるで、示し合わせたかのような静せい寂じやく。固唾かたずを吞のむとはこのことを言うのだと咲太は感じた。  理由はわからない。  校舎の窓から、知らない生徒が咲太を指差している。  その意味もよくわからなかった。バカにされているのだろうと最初は思った。  違ちがうかもしれないと疑ったのは、その指が咲太よりも少し後ろを示しているのだと気づいたとき……。  グラウンドの砂を踏ふむ音と共に、背中に気配を感じた。  咲さく太たがはっとして息を吞のんだ瞬しゆん間かん、あの声が鼓こ膜まくを刺し激げきする。 「そんなに大きな声で言わなくても聞こえてる」  耳に届いたのは、懐なつかしくすら思える声音。ずっと聞いていたいと思うようになった彼女の声だ。  咲太は慌あわてて振ふり返かえる。  潮しお風かぜが足元を通とおり抜ぬけていった。  制服のスカートの裾すそがふわりと揺ゆれる。  いつも通りの黒タイツが見えた。肩かた幅はばくらいに開かれた足。片手は腰こしで、もう一方の手は風で乱れた髪かみを直している。大人びた目元。なのに、少し怒おこったような表情はどこか子供っぽさを含ふくんでいる。  咲太の足元から、感情の波が一気に駆かけ上あがってきた。  十メートルほど離はなれた場所に、麻衣が立っていたのだ。 「近所迷めい惑わくでしょ」 「どうせだから、世界中の人に知ってもらおうと思って」 「日本語だと、わからないじゃない」 「あ、それもそっか」 「バカなんだから……」  麻衣が何かを我が慢まんするように俯うつむく。 「賢かしこいふりをしているやつよりはいいでしょ」 「ほんと、バカ……」  細い肩が震ふるえている。 「こんなことして目立ったら、また変な噂うわさが立つわよ」 「麻衣さんと噂されるなら大歓迎」 「そうじゃなくて……バカ……バカ……」 「……」 「バカ咲太!」  勢いよく顔を上げた麻衣の瞳ひとみから、大粒の涙なみだがぼたぼたと落ちた。  スローモーションで、最初の一歩が踏み出される。  麻衣が咲太のもとへと駆かけ寄よってくる。  抱だき留とめようと思って、咲太は両手を広げた。  残り三歩。二歩、一歩……その直後、グラウンドには「ばちんっ」という乾かわいた音が響ひびき渡わたった。高い空へと気持ちよく広がっていく。  面食らった咲太は一いつ瞬しゆん呆ぼう然ぜんとしてしまった。  少し遅おくれて頰ほおに熱い痛みが走る。  今さらのように、麻ま衣いに引ひっ叩ぱたかれたのだと理解した。 「え? なんで?」  素の疑問が口を出る。 「噓うそつき!」  麻衣は目の端はしにたくさんの涙なみだを溜ため込こんで、今にも不安が爆ばく発はつしそうな表情で咲さく太たを睨にらみ付つけていた。 「絶対に忘れないって言ったじゃない!」  やっと麻衣の言動のわけを理解した。確かに咲太には責められる理由がある。麻衣の言う通り、噓つきだ。 「ごめん」  震ふるえる麻衣の体を咲太はそっと抱だき寄よせた。  少し遠えん慮りよしながら腕うでに力を込める。麻衣は肩かたに顔を埋うめてきた。 「許さない……」  くぐもった声。 「ごめん」 「絶対に許さない……」  鼻をすすりながら、麻衣は顔を肩にこすり付けてくる。 「じゃあ、許してくれるまで離はなさない」 「だったら、一生許さない」  未だに声は涙なみだに濡ぬれていた。 「えー」 「なによ、嫌いやなの?」  少し泣きやむように、麻ま衣いがぐっと感情を吞のみ込こむ。 「美人の先せん輩ぱいにそんな風に言われて、嫌な男なんて……って、いたっ! 麻衣さん、足踏ふんでる!」 「私にここまで言わせておいて、一いつ般ぱん論ろんで逃にげようだなんていい度胸ね」 「あの、足」 「踏まれてうれしいんでしょ?」 「ごめん、ごめんなさい。反省しているので許してください」  踵かかとでがっつり踏まれていたので本気で痛い。 「他に言うことは?」 「泣くほどこわかったんなら、睡すい眠みん導どう入にゆう剤ざいなんて盛らなきゃよかったのに」 「この涙は咲太を困らせるための演技よ」 「じゃあ、徹てつ夜や続きの僕ぼくを気き遣づかってくれて、ありがとうございました」 「どういたしまして。でも、今、私が聞きたいのはそんな感謝の言葉じゃない」  麻衣の踵が再び咲太の足に乗る。 「ほんとは、わかってるくせに」  その足に、徐じよ々じよに体重が載のせられていく。  咲さく太たは観念して、望まれた言葉を口に出した。 「好きです」 「ほんとに?」 「噓うそです。大好きです」 「……」  短い沈ちん黙もくのあとで、麻衣が咲太から体を離す。涙はもう止まっていた。薄うっすらと跡あとが残っているだけだ。 「ねえ、咲太」 「なに?」 「今の、一ヵ月後にもう一度言って」 「なんで?」  意図が摑つかめずに素直に聞き返した。 「ここで返事をすると、勢いと雰ふん囲い気きで押おし切きられた感じがする」 「僕ぼくとしてはこの場の勢いでキスくらいまでしたいんだけど」 「今、ドキドキしてるのも、こういう状じよう況きようだからかもしれないし」  照れたようにそっぽを向いて、麻ま衣いはそんなことを言う。赤くなった横顔は、たまらなくかわいらしかった。 「麻衣さん、意外と冷静だね」  吊つり橋ばし効こう果かはごめんということのようだ。 「咲さく太たもちゃんと考えなさいって言ってるのよ」 「なにを?」  もはや、麻衣への気持ちに対して、考えることなど何もないと思う。 「私、年上なのよ」 「むしろ、大歓迎」 「私は年下の男の子が相手じゃ躊躇ためらうの」 「僕が頼たよりないから?」 「それは……そうでもないけど」  口をすぼめて小声で何か言っていた。 「年下と付き合うなんて、私がたぶらかしたみたいでいやらしいじゃない」 「それはその通りだから仕方ないと思うな」 「たぶらかしてはいない」 「いつも誘ゆう惑わくされてたと思うけどなあ」  ざっと思い出しただけでも、うれしいスキンシップはいくつもあった。頰ほおをつねられたり、足を踏ふまれたりしたのを合わせたら、かなりの回数になるはずだ。 「と、とにかくわかった?」 「わかんない」 「駄だ々だをこねないで」 「じゃあ、一ヵ月も待てないから毎日言ってもいい?」  少し驚おどろきながらも、麻衣はまんざらでもなさそうに頰を緩ゆるめた。 「いいけど、ちゃんと一ヵ月続けなさいよ。できなかったら、気が変わったんだと見なすから」  そう言って、咲太の鼻を指で押おすと、麻衣は悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべる。独ひとり占じめしたい麻衣の笑顔。今だけは仕方がないので、咲太はみんなにも見せてあげることにした。  そんなふたりの様子を、峰みねヶが原はら高校の全校生徒と全職員たちは、啞あ然ぜんとしたり、呆ぼう然ぜんとしたりしながら見守っている。どう反応すればいいのかわからず、周囲の反応を窺うかがって、判断待ちをしている空気が伝わってきていた。 「みんな、ほんと空気を読むのが好きよね」  校舎を見ながら、麻衣が皮肉っぽく笑う。そのあとで、大きく息を吸い込むと、 「咲さく太たが同級生を病院送りにしたっていう噂うわさ! あれ、デタラメだから!」  と、突とつ然ぜん大声で言ってのけた。  一いつ瞬しゆんの静せい寂じやく。  振ふり向むいた麻ま衣いは何やら得意げだ。 「みんなに言ってほしかったんでしょ?」  そう言えば、前に江えノ電でんの車内でそんな話をした。  少し遅おくれて、全校生徒の驚おどろきがグラウンドまで押おし寄よせてくる。どよめきが学校を包み込んでいた。興味の目が咲太と麻衣に集中している。 「……なんか、思ってたのと反応が違ちがうわね」  それはそうだろう。彼らは麻衣の告げた事実に驚きを示しているわけじゃない。 「麻衣さんが、僕ぼくを下の名前で呼び捨てにしたから、みんなびっくりしてるんだと思うな」  今、この瞬しゆん間かんばかりは、空気を読むのをやめて、目の前のスキャンダルに食らいついているのだ。欲求に忠実になっているのだ。これぞ、思春期。 「麻衣さんのせいで、すげえ、注目されてる」 「なによ、たった千人の視線が気になるなんて、咲太は自意識過か剰じよう」  さすが、国民的知名度を誇ほこった芸能人は言うことが違う。 「そりゃ、麻衣さんにとっては、三、四桁けた足りないかもしれないけどさ」  やがて、騒さわぎを収拾するために、咲太の担任教師と教頭、それにジャージ姿の体育教師の三人がグラウンドに出てきた。 「職員室で説教とか憂ゆう鬱うつだな……」 「いいじゃない」 「どこが?」 「私も一いつ緒しよに怒おこられてあげるから」 「ま、それなら悪くないか」  少なくともその間、麻衣と一緒にいられるのだ。  隣となりに麻衣がいることを実感しながら、咲太は校舎の方へと歩き出した。  麻衣と並んで……。  こうして、世界は桜さくら島じま麻衣を取とり戻もどしたのだった。  思春期症しよう候こう群ぐんに巻き込まれた五月とは違ちがい、六月になってからは、穏おだやかな日々を咲さく太たは過ごしていた。  約束通り毎日麻ま衣いに告白をするという平へい穏おんな日常。  もちろん、グラウンドの真ん中で愛を叫さけんだ影えい響きようはあったのだが……。  これまでの『病院送り』という看板に替かわって、『イタイやつ』や『あれが噂うわさの咲太』というレッテルを、咲太は全校生徒から貼はられてしまったのだ。廊ろう下かを歩くだけで、忍しのび笑わらいが聞こえてくる始末。学校の居心地はますます悪くなった。  けれど、麻衣を取とり戻もどすことができたのだから、「別にいいや」と咲太は開き直っていた。正直、そうでも思わないとやっていられない。  佑ゆう真まからは、 「やっぱ、咲太の心臓って鉄で出来てんだな!」  と、腹を抱えて爆ばく笑しようされ、一いつ緒しよにいた理り央おからは、 「私だったら、恥はずかしくて死んでる。さすが梓あずさ川がわ、青春ブタ野郎だね」  と真顔で言われた。 「それ、どういう意味だよ」 「『病院送り』の噂が学校中に流れたとき、『空気と戦うなんてバカバカしい』とか言ってたの忘れた?」 「あ~、咲太言ってたな。それ、俺おれも聞いた」  確かに言った覚えはある。今だってその考えは変わっていない。 「自分のためには本気になれなかったくせに、美人の先せん輩ぱいのためになら、どんな恥はじもかけるなんてやつが、青春ブタ野郎じゃなくてなんなのよ」  そんなにはっきりと言われてしまってはぐうの音も出ない。 「……」  理央の言う通りで、自分を取り巻く空気を変えようと思ったことはないのに、麻衣のためにと思ったら、ついつい熱くなっていた。グラウンドの真ん中で愛を叫んでいた。 「一生、咲太をからかうネタができたな」 「僕はじいさんになっても、そのことを言われんのか」  それならそれで、そんな人生も悪くない……と思うことにしよう。 「なあ、双ふた葉ば」 「なに?」 「結局、双葉の仮説が正しかったってことでいいのか?」 「さあね。思春期の不安定な精神や、強きよう烈れつな思い込みが見せるまやかし……そういうのが、思春期症候群だって言うなら、科学的な検証なんて当てにならないよ」  後日、物理実験室を訪ねた咲太に、理央は身も蓋ふたもなくそう答えただけだった。 「ま、そりゃそうなんだけどさ」  理り央おの考えは、いい線をいっていたのではないかと思う。  空気のように振ふる舞まっていた麻ま衣いがいて、空気のように麻衣を扱あつかっていた全校生徒がいた。無意識で行われていたのであれば、それはもう本物の空気であることと差なんてない。『ような』でもなくて、事実上そうであれば、それは現実となんら変わらないのだ。  そして、そうした状じよう況きようは、他の学校でも起こっているのだろうと咲さく太たは感じた。人がたくさん集まれば、何かしらの空気が必ず生まれるのだから……。  麻衣の場合は、学校内に蔓まん延えんした暗あん黙もくの了解が、思春期症しよう候こう群ぐんとして外の世界にまで広がっただけの話。ただ、それだけの話。  理央の言うように、これ以上は考えても仕方のないことだ。 「ま、でも、私たちの世界なんて、告白ひとつでがらっと変わってしまうくらいに、単純なのかもね。梓あずさ川がわが証明したようにさ」  物理実験室を出て行こうとしたところで、理央は実験の準備をしながら、投げやりにそんなことを言っていた。  色々と話は聞いたけれど、不思議とそれが一番の真理に聞こえた。 「そうかもな」  少なくとも、咲太を取り巻く日常の世界は、告白ひとつで彩いろどりを変えたのだ。  麻衣は麻衣で、取とり戻もどした日常の中で、確実に前へと歩き出していた。  手始めに芸能界への復帰を宣言。  その記者会見の様子は、さすが『桜さくら島じま麻衣』という大々的なものだった。復帰に当たっては、一応、母親と会って話をしたようだったが、帰ってくるなり咲太のバイト先に顔を出し、散々咲太に八つ当たりをしてきたので、綺き麗れいに仲直りとはいかなかったようだ。  それでも、顔を合わせてケンカができれば、十分に健全な母娘に思えたし、ちゃんと母親が麻衣を思い出してくれていたことに、咲太はほっとしたりもした。  そうこうしながら、日々は流れていく。  あれから約一ヵ月になる六月二十七日。金曜日。  妹のかえでに起こされた咲太は、TVから流れてくる朝のニュースを聞きながら、学校に行く支度を整えた。 「やってくれました。日本代表!」  どうやら、昨日、サッカーの日本代表は見事に勝利を収めたようだ。 「おはようございます。今日は六月二十七日。金曜日。早速、サッカーの話題からいきたいと思います!」  どの国と対戦したのかは知らないが、ニュースキャスターの興奮した声で、快挙を成なし遂とげたらしいということだけは伝わってくる。  映し出されたダイジェストは、前半終了間際のフリーキック。キーパーの逆をついたボールは、見事、相手のゴールに突つき刺ささっていた。  それを見届けてから、 「んじゃ、いってくるな」  と、かえでに言って、咲さく太たはいつものように家を出た。  藤ふじ沢さわ駅までは徒歩。そこから江えノ電でんに揺ゆられること約十五分。七しち里りヶが浜はま駅で下車して同じ制服を来た生徒たちの流れの一部となって校門をくぐる。  面白いことなんて何も起こらない。でも、おかしなことも起こらない。そうした普ふ通つうの日々に今は感謝したい気分だった。  その日の昼休み、咲太は三階の空き教室で、麻ま衣いと昼食を取っていた。他の生徒は誰だれもいない。教室には咲太と麻衣のふたりだけ。  海の見える窓際の机を挟はさんでお弁当を広げる。  うれしいことに、今日のお昼は麻衣お手製のお弁当だ。  これは、昨日のちょっとしたやり取りの結果だったりする。 「麻衣さんって、料理できんの?」 「できるわよ。一人暮らしも長いし」 「えー、ほんとかな」 「なによ、信じないわけ?」 「だって、お昼いつもパンだし」 「そんなに言うなら、明日、お弁当作ってきてあげるわよ」  とか、そんなことがあったのだ。  開いたお弁当箱の中身は実に彩いろどり豊かだった。鶏とりの竜たつ田た揚あげ、卵焼き、ポテトサラダにはプチトマトが添そえられ、ヒジキと豆の煮ものまで付いている。  麻衣の視線を感じながらひとつひとつ味わった。おいしい。少し薄うす味あじだけど、やさしい味付けで本当においしかった。 「さあ、昨日の無礼を私に詫わびて、誠心誠意許しを請こいなさい」  勝かち誇ほこった麻衣の笑み。咲太の反応から、勝ちを確信したようだ。 「すいませんでした。僕ぼくが悪かったです。生意気でした。ごめんなさい」  ここは素直に頭を下げる。正直、こんなことはなんでもない。麻衣の手料理を味わえた時点で咲太としては完全勝利していたのだから。 「わかればいいのよ」  実力を示せた麻ま衣いは満足げだ。まさにウィンウィンの関係。 「あの、麻衣さん」  顔を上げ、じっと麻衣を見つめた。 「なによ」 「好きです。付き合ってください」 「……」  麻衣はあっさりと視線を逸そらすと、自分のお弁当の卵焼きを箸はしで口に運んだ。 「……」  もぐもぐと咀そ嚼しやくしている。 「……」  ごくんと飲み込むのを待っても返事はない。 「え? 無視?」 「なんか、ときめかない」  退たい屈くつそうに麻衣がため息を落とす。 「一ヵ月もの間、同じこと言われてると何も感じなくなる」 「言わせておいて酷ひどいな」 「『一ヵ月後にもう一度言って』とは言ったけど、咲太が毎日言いたいなんて言うからでしょ」 「それはそうだけど」 「あ、そうだ。七月から放送されるドラマに出演が決まったの」 「うわー、話題まで変えるか、普ふ通つう」  果たして、ここまで雑な扱あつかいをされた告白がこれまでにあっただろうか……。  麻衣は気にせずに鞄かばんから黄色い表紙の台本を取り出している。六話と文字が見えた。 「深夜枠わくで、中ちゆう盤ばんの一話にだけ登場する役なんだけどね」  それは主演を張りまくってきた麻衣にとっては、物足りない小さな仕事なのかもしれない。けれど、仕事が決まったことを素直に喜んでいるのは、麻衣の表情を見ればわかるし、こんなに楽しそうに話しかけてくるのを、咲さく太たははじめて見た気がした。  だが、それと告白をスルーされた今の気分は関係ない。 「あ~あ、僕ぼくの人生なんなんだろ」  ぼんやりと海を見る。梅雨の時期に訪れた短い晴れ間。砂浜を歩くと気持ちよさそうだった。 「なに? 私の復帰がうれしくないの?」 「とってもうれしいなー」 「キスシーンもあるんだから」 「……今なんて?」  聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。 「キスシーンがあるの」 「断ってください」 「いいじゃない。はじめてってわけでもないし」 「……」  気のせいだろうか。またしても聞き捨てならない言葉を麻ま衣いは発した気がする。 「ちょっと待った、麻衣さん」 「なによ」 「前に処女だって言ってたよね?」 「そういうの気にしないんでしょ」 「いやいや、キスはダメ」 「どういう基準なのかわかんないけど、相手が咲さく太たでもダメなの?」 「……」  今度に関しては、何を言われたのか一いつ瞬しゆんわからなかった。 「え?」  驚おどろきが遅おくれて声になる。 「私のファーストキス、咲太にあげたのに。覚えてないなんて最低」 「え? いや……は?」  考えてみたけど、やっぱりわからない。わからないけど、麻衣が噓うそを言っているようには思えない。唯ゆい一いつ心当たりがあるのは、咲太が麻衣のことを忘れていた空白の時間。 「あ、まさか……」 「おとぎ話のようにはいかないわね。キスをすれば咲太が私のことを思い出してくれると思ったんだけどなぁ」  がっかりした表情をされると非常に辛つらい。 「必ず思い出すので、詳くわしい時間と場所を教えてください」 「いやよ」 「ヒントだけでも」 「絶対に教えない」 「そこをなんとか」  両手を合わせて麻衣を拝おがむ。 「じゃあ、もう一回する?」  思いもよらない提案が麻衣から飛んできた。上うわ目め遣づかいで咲太を誘さそってくる。これまで散々からかわれてきているので、これも罠わなかもしれないと思ったが、それで引き下がれるほど可愛げのある誘ゆう惑わくではなかった。 「ぜひ」 「じゃあ、目、閉じて」 「ん? 今?」  てっきり、ファーストキスのシチュエーションを再現するのかと思ったが違ちがったらしい。 「嫌いやなの?」 「いえ、いただきます」  目を閉じて、そのときを待つ。心臓がばくばく鳴っている。さすがに緊きん張ちようしてきた。 「いくわね」  少し恥はずかしそうな麻ま衣いの声。頰ほおに吐と息いきがかかり、すぐ側に麻衣の体温を感じた。机を挟はさんで、麻衣が身を乗り出してきたのが肌はだに伝わってくる。  約一秒後、唇くちびるはふわっとした感かん触しよくに包まれた。意外と麻衣の唇は冷たい。あと、出だ汁しの味がする。先ほど食べた卵焼きと同じ味……というか、これは卵焼きの感かん触しよくだ。  目を開けると、箸はしでつまんだ卵焼きを咲さく太たの唇に押おし当あてた麻衣が、必死に笑いを堪こらえていた。 「本当にされると思ったんだ」  意地悪な笑み。  返事をせずに、咲太は卵焼きにぱくりと食いついた。箸ごと頰ほお張ばる。 「麻衣さんと間接キスができて、とてもうれしいなぁ」  わざとらしく棒ぼう読よみの芝しば居いをする。麻衣が意識しやすいように……。 「……」  案の定、麻衣の目線が箸の先せん端たんを気にしている。まだ机の上のお弁当箱には半分近く中身が残っているので、それをどうするか悩なやんでいるようだった。 「ま、麻衣さんは大人だし、年下の僕ぼくと間接キスするくらいなんともないんだろうけど」  先回りして逃にげ道みちは封ふうじておく。 「そ、そうね」  わずかに躊ちゆう躇ちよしたものの、一度強がってしまった手前、麻衣は咲太にあ~んをした箸でお弁当を口に運ぶ。そのまま無言を通して、麻衣はお弁当箱を空にした。その間、顔はほんのりと赤みが差していて、とても目の保養になった。 「言っておくけど、私じゃないから」  麻衣がお弁当箱をナプキンで包んでいく。 「ん?」 「キスシーンがあるのは、主演の子」  安あん堵どと共に、咲太の中で不満が顔をもたげた。 「麻衣さん、性格悪すぎ」 「でも、咲太はそんな私のことが大好きなんでしょ?」 「さすがにこのままだと愛が冷めそう」 「な、なんでよ!」  狼ろう狽ばいした麻ま衣いの声は、いつもより甲かん高だかい。 「だって、麻衣さん全然その気なさそうだし……ときめかないとか言われると、絶望的な気分になる」 「……ダメとは言ってない」  麻衣は拗すねたように唇くちびるを尖とがらせて、ドラマの台本を開いていた。 「じゃあ、いいの?」 「それは、その……」  赤くなった顔を、麻衣が台本で隠かくしている。 「いいの?」  さらに確認の言葉をかけると、台本の陰かげから目元だけを覗のぞかせていた。 「……」  恥はずかしそうに、ちらりと咲さく太たを見てくる。それから、消えそうな声で、 「……うん、いいよ」  と、麻衣は頷うなずいてくれたのだった。  その日、そのあとのことを咲太はよく覚えていない。麻衣との交際スタートに、すっかり気分は舞まい上あがり、浮うかれに浮かれまくっていたのだ。  翌日の朝になっても、幸せ気分が収まる気配はなかった。  学校に行く支度をしながら、鼻歌交じりにTVをつける。流れてきたニュース番組に、何気なく目を向けると、 「やってくれました。日本代表!」  という、興奮した様子のメインキャスターの声が聞こえてきた。 「……」  不思議に思って画面を注視する。聞き覚えのある言い回しに思えたのだ。 「おはようございます。今日は六月二十七日。金曜日。早速、サッカーの話題からいきたいと思います!」  今、男性キャスターはなんと言っただろうか。  六月二十七日。  確かにそう言った。  流れ出すサッカーの試合のダイジェスト。それに咲太は見覚えがあった。前半終了間際、日本代表の選手が放ったフリーキックが、ゴールに吸い込まれていく。  慌あわてて部屋に戻って、目覚ましに使っているデジタル時計を見る。日付も表示されているのだ。 「……なんだこれ」  いつも使っている目覚まし時計も、六月二十七日を示していた。  ──この日、梓あずさ川がわ咲さく太たが目覚めたのは、昨日の朝だった  あとがき  幸せの絶頂の最中に巻き起こったおかしな事態。  これは、新たな思春期症しよう候こう群ぐんなのか。  はたまた、咲さく太たが夢を見ているだけなのか。見ていただけなのか。  それとも……。  ──果たして、咲太の運命やいかに  次回、シリーズ第二巻『青春ブタ野郎は○×△□の夢を見ない』を、楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。  ○×△□の部分は現在未定です。いじらずに『2』で落ち着くかもしれません。  夏が終わる前に、お届けできればと思っていますが、果たして発売日やいかに。  というわけで、鴨かも志し田だ一はじめです。  はじめましての方は、はじめまして。  お久しぶりですの方は、ご無ぶ沙さ汰たしております。  先月もお会いしている方は、引き続きよろしくお願いいたします。  意外と足を運ばないのが、身近な観光エリア。  今回、物語の舞ぶ台たいとして選んだのは、そんな感覚が当てはまる地域です。人生の殆ほとんどを神奈川県で過ごしているため、いつでも行けると思うと、逆に赴おもむく切きっ掛かけがなかったりするものなのです。  電撃文庫編集部の方が、家から遠いくらいですからね。  そんな海が見える街を舞台とした物語は、ここがスタート地点です。この先も、お付き合いいただけましたら、大変うれしく思います。  イラストの溝口ケージさん、担当編集の荒木さん、前作『さくら荘のペットな彼女』から引き続きですが、本作もよろしくお願いいたします。  それでは、二巻でもお会いできることを信じて。 鴨志田一 鴨かも志し田だ 一はじめ 1978年4月11日誕生。神奈川県出身の左利き。 海は広くて、大きいね。というわけで海です。 本作の舞台となっている七里ヶ浜の海です。 主人公の通う学校から見えている海でもあります。 江ノ電に乗って、何度か足を運びました。 今後も通います。いいですね、江ノ電。癒されます。 溝みぞ口ぐちケージ 久しぶりにがっつりとキャラデザ作業やりました。 新作です! 嬉しい! 楽しい! ってことで今回から(今回も?)よろしくお願いしナス。 本書に対するご意見、ご感想をお寄せください。 電撃文庫公式ホームページ 読者アンケートフォーム http://dengekibunko.jp/ ※メニューの「読者アンケート」よりお進みください。 ファンレターあて先 〒102-8584 東京都千代田区富士見1-8-19 アスキー・メディアワークス電撃文庫編集部 「鴨志田 一先生」係 「溝口ケージ先生」係 本書は書き下ろしです。 電撃文庫 青せい春しゅんブタ野や郎ろうはバニーガール先せん輩ぱいの夢ゆめを見みない 鴨かも志し田だ 一はじめ 発 行    2014年4月24日 発行者    塚田正晃 発行所    株式会社KADOKAWA        〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3        03-3238-8745(営業)        http://www.kadokawa.co.jp/ プロデュース アスキー・メディアワークス        〒102-8584 東京都千代田区富士見1-8-19        03-5216-8399(編集)        http://dengekibunko.jp/ 本書(電子版)に掲載されているコンテンツ(ソフトウェア/プログラム/データ/情報を含む)の著作権およびその他の権利は、すべて株式会社KADOKAWAおよび正当な権利を有する第三者に帰属しています。 法律の定めがある場合または権利者の明示的な承諾がある場合を除き、これらのコンテンツを複製・転載、改変・編集、翻案・翻訳、放送・出版、公衆送信(送信可能化を含む)・再配信、販売・頒布、貸与等に使用することはできません。 (C)2014 HAJIME KAMOSHIDA ※2014年4月10日発行の電撃文庫『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』初版に基づき制作